人間が折り重なって爆発した

人間が折り重なって爆発することはよく知られています。

『スケッチブック』という漫画。あるいは鳥飼葉月は学食で素うどん3つを頼まない

これは何?:

漫画及びアニメ『スケッチブック』(小箱とたん)についての感想

 

本文:

『スケッチブック』という作品がある。小箱とたん先生による、美術部の日常を描いた四コマ漫画だ。2002年から連載が始まり、2019年で完結している。2007年にはアニメ化もされている。

先日、このスケッチブックが期間限定で全話無料公開になっていたので読んだ。

読み終えるのが間に合わなくて結局、最終巻は普通に買って読んだが。(出張版は読んでいないが、まあほぼ読んだといっていいだろう)

全話無料期間は終わったが、最初の数話はずっと無料で読めるので、気になった人はちょっと読んでみてほしい。

magcomi.com

アニメはバンダイチャンネルで一話だけは無料で見れる。こちらも。

www.b-ch.com

dアニメストアにも入ってるので、そちらでも見れる。

俺はアニメ版が大好きで、ちょうど大学に入って本格的にアニメを見始めた頃の作品で、そういう思い入れも深い。好きなアニメを五本上げろと言われたら確実に入ってくる作品になる。20代の頃はずっと「俺に自由に使える5億円があったら、スケッチブック二期を作るためにアニメ会社に投げる」と思っていた。

まあそういうわけなのだが、そう言ってる割に原作の方はずっと読んでいなかったので今回やっと読んだというわけだ。

とにかく、このスケッチブックというアニメはとんでもなく心地が良い。日常系ギャグアニメなので、これといったストーリーはなく、全体的に癒し系というか、まったり系のアニメではあるので、そういうのが嫌いな人には退屈に思えるかもしれないが。ただ、ギャグについて言うなら説明過多なダルさはないし、スッと流れていく時間のチルな感じがすごく良い。例えば第1話だったと思うが、放課後の美術室で部員たちが円形に座ってキャンバスに向き合っているシーンがあるのだが、外からは吹奏楽部のパ~~プ~~みたいな練習音が響いていて、美術部員たちは静かに手を動かしているというのが、ああ~ええね、となる。ノスタルジックというか。

何より個人的に好みだったのが、この作品が極めて「地に足が着いている」作品であることである。(「地に足が着く」の本来の意味は「堅実で安定している」だが、俺はよくこれを「実生活に根差している」「きちんと人間と物質の関係を見据えている」くらいの意味で使います)

スケッチブックは作者・小箱とたん氏の知識や生活で感じたことにきちんと裏打ちされている。日常あるあるネタと言ってしまえばそれまでであるが、例えば漫画の第1話でコンビニのおにぎりが上手く開けられなくて一緒にハサミを買うくだりなんかは、きちんと生活を見て描いているという感じがあり、それが他ではあまり見ない(?)オリジナリティになっていると思う。(漫画の6巻あたりまではこういう面白さがメインになっていると思う)(実のところ俺は他の日常系ギャグ漫画作品をほとんど読んでいないのでたしかなことは言えないのだが)

また、膨大な生物ネタは図鑑的であることを越えて(単に生物の名前をいじるだけの回はメチャクチャ多いのだが)、きちんとその生物を触ったことのある感覚が出ている。そういう実生活の感覚とでもいうものがある。多分、小箱とたん先生はエッセイとかを書いてもけっこう面白い気はする。

最近改めてアニメ版を見直したのだが、心地良さは10年以上前に見た時とほとんど変わってなくて、ホッとした。10年以上経つと自分も変わってしまって、何でこんな作品を楽しんでいたんだ?みたいなものも出てきて、ちょっと悲しくなってしまうのだが、スケッチブックはそうではなかった。

アニメ版の大きな魅力の一つは間違いなく、作曲家・村松健によるサウンドトラックであろう。氏の作る曲は一見素朴だが、非常に丁寧で、それが穏やかでほのぼのした、そして時に細やかなしっとりした空気を作り出す。それがスケッチブックという作品に本当によく合う。

このアルバム「サウンドスケッチブック」は人生で最も聴いたアルバムの一枚である。(ちなみに人生で聴きまくったアルバムはその他に『By the Way』(Red Hot Chili Peppres)、『X&Y』(Coldplay)、『In Rainbows』(Radiohead)、『Dolce Rose Collection』(Attrielectrock)などがあります。)

サウンドスケッチブックは院試勉強で学食でひたすらシュライバー「無機化学」やマッカーリ・サイモンの「物理化学」を解きながら聞いていた覚えがある。全てが懐かしい。みなさんも買うといいですよ。

厳密にはサウンドスケッチブックに収録された曲(「夕焼けを歩いたね」)ではないのだが、ほとんど同じ曲(「夕焼け坂」)を村松健が弾いている動画があるので貼っておく。これだけでも十分に氏の曲の雰囲気や良さが伝わると思う。

www.youtube.com

 

さて、概要はこの辺りとして、後は原作やアニメにおける各キャラクターや描写の魅力について書きたいと思う。それなりに長くなります。

 

小箱とたんの描くキャラクターの魅力として、キャラクターが個々に自己完結していて互いに過度に干渉せず、相手がちょっと変な奴であっても温かく見守って日常を過ごしている点が挙げられると思う。それを最も体現するのが主人公だろう。

主人公の梶原空は他人を気にせずフラッとどこへでも出かけてしまうし、夏海と葉月という二人の友人はそういう梶原空のある種の空気の読めなさを理解している。空は夏海や葉月の意向を気にすることなく、美術部室の外に出ていくし、二人は「空が何か面白いもの見つけたのかもしれん」と言って空に付いて行く。また、夏海と葉月が「休日に遊ぶけど空は来る?」と誘うと、空はちょっと迷った後に首を振って断ってしまう。そしてその空が休日にやることと言うと、一人でスケッチブック片手に街中に写生に出かけることなのだ。空が遊びを断っても夏海と葉月は変な空気にならないし、「何するの?」とも聞かない(別に聞いたっていいし、聞いたところで三人の関係性は悪くならないだろう。そういう信頼感がこの作品にはある)。ギスギスした空気はこの作品にはなく、弛緩した理想の人間関係とも呼べるものがここにはある。

アニメ4話で春日野先生が栗原と空を写生会として山に連れて行くが、春日野先生は飽きっぽくて面倒くさがりな性分で、栗原と空に向かって「私は車で待ってるから適当に回ってきて」と言う。それに対して、えぇ……とはなるものの、結局まぁええか、みたいな空気になる。まあ、現実であればちょっと無責任な感じもあるが、その放任と自由さはこの作品の根底に流れている空気で、それがすごく心地よい。

 

漫画では1話で夏海がマペットで腹話術をやるが、それに対して葉月がツッコむ前に自己反省してしまうというのも良い(葉月に実際にツッコむつもりがあったかどうかはよく分からないが)。夏海は当初、自己完結したボケキャラとして作られていて、葉月もそのように作られているように思う。特に夏海は緩やかに人間関係や自己を俯瞰的に見れるキャラで、それゆえに段々ツッコミ役に回っていき、マペットも全く登場しなくなり、そして個性豊かな他のボケキャラに紛れて段々影が薄くなっていく。ギャグ漫画というか、ギャグそのものがすでにそうであるが、ツッコミというのは必要とされない場合は多い。まずはボケというか面白さがあることが大事で、キャラがボケ倒しても読者がそれを読みながら心の中でツッコんで笑えれば十分という場合も多い。

アニメでは夏海はマペットを使うキャラとして、ボケキャラとして、そして物語の牽引役としてけっこう重要な役目を果たす。主人公三人コンビで、明確に取りまとめ役を果たすし、ケイトに正しい日本語を教えるように必死に奔走するし、健気に頑張るキャラなのだ。彼女は自分のマペットキャラを自覚して演じている。そういうところも好きだ。夏海がアニメで自分のたくさんのマペットを紹介して、そのマペットの中に嬉しそうに埋もれるのはメチャクチャかわいい。総じてアニメは麻生夏海というキャラが漫画に較べてクローズアップされていたように思う。俺は数あるアニメキャラの中で麻生夏海がトップクラスに好きで、フィクションではあるが、ああいう友人と青春を過ごせたらメチャクチャ楽しかっただろうなと思う。

漫画の夏海は途中から影が薄くなっていくが、作者としてもいろいろとテコ入れはしたかったんだろうなという感じはあり、おそらく早い段階で夏海の親戚である上野彩雲が登場したのは、夏海の登場回数を増やすためもあったのだろうが、上野彩雲と夏海のペアは個人的にいまいち面白さに欠ける感じではあった。やがて上野彩雲もまた栗原という、この作品の後天的な主人公と呼べる存在に飲み込まれていってしまう。後半の巻で、夏海と葉月の影が薄くなったことについて、作者自身も吹っ切れてしまったのか、作品内において二人はそのことを自虐的に言及し始める。夏海はマペットではなく着ぐるみを着だしたりする。このあたりはけっこう面白い。夏海が美術室でワイワイやってるみんなを見ながら「私というツッコミがいなくても上手く回っとるな、うんうん」みたいな感じで後方彼氏面みたいな感じになっていたりするのも面白い。(その後に部長から「え? お前はボケキャラだっただろ?」とツッコまれる)

漫画後半においては夏海にもある程度安定感はあり、あるのだが、俺はずっとアニメ版の夏海が好きで、それが原作にはいなかったのはちょっとショックで寂しかった。俺が見た夏海は幻影だったのかもしれん。マペット使いの快活ボケキャラ博多弁少女。ああ、それは。

 

葉月はキャラとしては美人枠というか、常識人枠というか、そんな感じだ。作者の日常におけるネガティブな感情がけっこう反映されているようにも思う。そして一人で完結してしまうキャラでもある。最初に美術部に入るのも、夏海や空とは関係なく、春日野先生に事前に書いていた入部届けを出す。他者に左右されない、きちんとした性格だ。夏海とは仲良いが、他人とは一定の距離間を置いているようで、全員をさん付けで呼ぶし、話す時も丁寧語が多い印象がある。ボケキャラが多い中で常識人ではあるが、性格ゆえに強くツッコむことはなく、心の中でツッコんだりすることが多い。アニメと漫画でそんなにキャラはブレてないように思う。漫画の前半の巻では、一人でいる時のネタが多く、持ち前の貧乏性が発揮されてちょっとした自己嫌悪に陥るネタが多い。そういう意味では作者の日常あるあるネタを一番反映していたのではないかと思う。ただ、葉月が出てくる時に一人のパターンが多いと、読者としてはちょっと心配になるというか、寂しい気持ちにもなってくる。こいつ、美術部に溶け込めてんのかな、みたいな。アニメだと明確に空がコミュ障キャラとして描かれ、それが最終話で少し克服されるというハートフルストーリーの形を取っているのだが、漫画だと空は人見知りという性格は残るものの、どんどんふてぶてしくなっていく。美術部という環境に馴染んでしまう。空は途中で「飯ごう」という猫を半ば飼う状態になるが、その猫が最初は家の隅で縮こまっていたのに慣れてくると触ったりつまんだりしても全く動じなくなる。それを見た夏海が「それって……」みたいに思うところが良い。(飼い主に似てるな、と言いたいのだろう)

そういうわけで、漫画を読んでいると空よりも葉月の方がちょっとコミュ障のようにも見える。

 

  • 霧島渓・小木高嶺について(漫画後半に生じるグルーヴについて)

最初に書いた通り、作者の日常あるあるネタは面白いのだが、続けて読んでいると食傷気味にもなるし、やはり個人的にキャラクターを見たい!という気持ちになって、そしてそれは6巻あたりが分水嶺になるような形になる。6巻でなんとなく予感めいたものがあり、7巻で明確にキャラクター同士の絡みがドライブされる感じが出てくる。キャラ相互のやりとりによるグルーヴが出てくるというか。7巻では霧島渓と小木高嶺という新キャラが登場する。これが凄い。二人はある意味で、夏海と葉月のジェネリック的な、焼き直し的な側面があるのだが……作者がこのタイミングでこの二人を投入したというのは、バランス感覚というか、創作に対する感覚がすごいと思う。編集者とどういうやりとりがあったのだろうという気もしてくる。とにかく、この辺りからスケッチブックはキャラ物としてかなり面白くなってくる。

特に二人が出てきてすぐの回で、夏海・葉月・霧島渓・小木高嶺の四人で学食で飯を食う回があるのだが、これが凄い。夏海はすぐにフランクに接する(小木とは既に知り合い)が、葉月は夏海から自己紹介を振られて「あ……どうも、初めまして……(ぺこり)」みたいな、こう、あぁそうよね~~みたいな感じの反応をする。ここの葉月は鮮烈に脳に焼き付く。メチャクチャ面白いとかそういうわけではないのだが、とにかくここは思い出深いシーンになる。それ以前の回で小木は頭良いキャラとして(読者に)認知されているのだが、その小木は学食で素うどんを三つ頼む。何故かというと、腹が減っている時のコスパで考えた時に、それがベストな選択肢だからである。これもまた、ウオオとなる。これは、あり得なかった別の葉月の在り方でもあるのだ。葉月は買い物を全てコスパで考えるが、小木のように学食で素うどんを三つ頼んだりしない。それは葉月が周囲の目を気にするキャラであるからである。漫画の前半で葉月が一人で道端でどんぐり拾いをする回があるが、彼女は近くを車や人が通るたびに立ち上がる。どんぐり拾いという、ちょっと変に見られかねない行為を恥ずかしがっているのだ。だから葉月は学食で素うどん三つを頼まない。小木は学校の成績が良いし、何事もコスパで考えるが、こういう傍から見るとちょっと変な行為も普通にしてしまう。自分で分かってやってるのか分かってないのかは、よく分からないが……。最初の霧島・小木の登場シーンでは、小木が仕方なく空と霧島に勉強を教えてやるという感じなのだが、話が進むにつれ小木の方が人間関係にちょっと不器用な感じがあり、ボケ倒す霧島の方が飄飄といろいろなことを受け止めている、という印象になる。霧島・小木ペアの回はけっこうあるが、典型的なパターンでボケ・ツッコミのやりとりが作られているように思う。なんというか、夏海・葉月ペアでは上手く作れなかったものが、ここでは作られている。ような気がする。そして霧島・小木は美術部員の中に溶け込んでいき、やがて栗原やケイトの主宰するネタに組み込まれていく。(そしてあの最終回である)

良くも悪くも、夏海と葉月は賢く、周りの目を気にして、気遣いができるキャラなのだと思う。常識人とも言う。だから霧島・小木ペアのようなやりとりになりにくいのかもしれない。両者が遠慮するキャラだと、何度もギャグを生んでいくのは難しいのかもしれない。

前述の四人の学食の回の恐ろしいところは、四人が学食で食べている間に空は一人で外のベンチで飯を食べていることである。空は一人で昼食を取りながら、日なたに出てきたトカゲをビビらせたりして一人で遊んでおり、そして彼女はそれでかなり楽しそうなのだ。他の四人も食事に空が同席していないことに違和感を覚えない。双方(四人/空)に互いにのけ者にしている/されているという感覚はない。むしろそれは相互理解によって成り立っている。もちろん仲が悪いわけではなく、その逆である。夏海・葉月・霧島・小木の四人は空というマイペースな人物についてよく理解している。ああ~そうだよな~お前らはそうだよな~という感じだ。ここは本当にすごく、霧島・小木という新キャラの登場もあって、ものすごく鮮烈な回になっている。

 

  • 栗原とケイトについて(作品の基本構造について)

最終的に、この漫画における基本構造になってしまった二人。言葉遊び担当、ケイト。生物ネタ担当、栗原渚。最終巻の巻末漫画で涼風コンビが「主人公」として呼ぶのは、梶原空ではなく、栗原渚である。これにはちょっと笑ってしまった。まぁ作者が一番自覚があるところなのだろう。全体を通して、空よりも栗原の方が明らかに登場回数は多い。とにかく栗原渚は作者の生物ネタを一手に引き受ける。だが、登場回数のわりに栗原自身のパーソナリティー自体はよく分からないままであるように思う。これはケイトも同じだ。それゆえに装置っぽいというか、構造っぽいというか。

ケイトの言葉遊びネタで、葉月たちにtomato(トメイトゥ)の発音で「金平糖」「tonight」を言わせるネタは本当に凄くてかなり感心してしまった。作者の言葉に対する感性の真骨頂であろう。

実はアニメは原作のパッチワークで作られている(俺は漫画の出張版が未読なので、そう言い切るのは早計なのかもしれないが)(しかしこのアニメ構成をきちんと作った人は相当な手腕を発揮したはずである)。

また、そもそも原作自体も作者が「ネームをたくさん編集者に出して面白いものを拾って掲載してもらった」みたいなことを書いてたはずで、特に序盤は四コマ同士に繋がりのない、個々の独立した四コマを楽しむものになってしまっている。

全てを求める必要はもちろんないのだが、やはりストーリー漫画的に、四コマ同士に横断があった方がいろいろと描きようが増えるように思うし、時空間として広々とするというか、余裕ができるというか、"流れ"として読めるあの感じは、そちらの方が良いという感じはする。

そして実際、7巻以降のキャラクター物としての面白さが加速するにつれて、個々の独立した四コマから、複数の四コマに渡って一つのネタが展開していく回が増えていく。そうしたネタの中心人物はやはり栗原やケイトが多い。彼女たちの周りに美術部員があれこれ口を出したりツッコんだり、そうやって絡みが生まれていく。これがスケッチブックが最終的にたどり着いた構造であろう。

 

空閑木陰。スケッチブックのメインヒロインともいえる存在。と、個人的には思っている。空閑は漫画全体を通して最もキャラが立ったというか、立体的になったキャラだと思う。俺はアニメでは麻生夏海が一番好きだし、最も魅力的に描かれていると思うが、漫画では空閑木陰が最も立体的に描かれていると思う。

空閑は当初、暗めのクールな毒舌で、己の世界観を持ったちょっと変わったキャラとして描かれる。身長が低く、髪をポニーテールにして丸っこい頭をしている。ポーカーフェイスで、感情があまり表情に出ない。キャンバスを黒く塗りつぶして「闇夜を描いてるのよ」と言ったりする。美術室のカーテン(暗幕?)にくるまって、顔だけ出して遊んだりする。とにかく、そういうキャラだ。ボケキャラとしてはワイワイ騒いだり、何か変なことを言い出して他者を巻き込んでいくキャラが部員に多い中で、彼女は落ち着いていて、かつ変人なキャラである。小箱とたん先生曰く「変人を演じているが、演じるのが普通になっている人」

最初のうちはそんなに気になるキャラでもないのだが、4巻あたりで突然、空閑が階段から転げ落ちる話がある。これは本当に突然、何の脈絡もなく起きる。読んでいて「エッ!?」となる。これはけっこうショッキングだ。話としても、バターン!と転んで倒れた空閑が起き上がらずに仰向けになったまま「痛いからこのままの体勢でしばらくいさせて」と言うだけである。????となる。何もよく分からなくなってしまう。これはもう、なんというかギャグとして成型されていない。いや、これには読み方が存在していて、空閑が自分が転んだことをなんとか取り繕ったりギャグにしようとしたりしたが結局無理だった、ということなのだろうと思う。これは空閑の素の姿なのだろう。

階段落としの前兆となる回はあり、空閑が校庭で他の部員と会話している最中に流れ弾のボールを頭にぶつけられてしまい、一度は倒れるが、すぐに起き上がって何事もなかったかのように会話を続けるという話だ。この話はギャグとして成立しているように思う。

階段落としの話もボールをぶつけられる話も、ある種のポルノというか、薄めまくったゆ虐と言えなくもないかもしれない。俺もそういう楽しみ方が全くないと言えば、嘘になる。

これはある種の耐久試験というか、普段はすまして演技しているキャラが、何かアクシデントに見舞われると、その演技を維持できないということだ。ここで少し「オッ」となる。

また、自宅で飼い猫に話しかけている回も良い。飼い猫の「ユタンポ」は作中に登場する猫の中で最も素朴にかわいくて"良い子"な猫だ。空閑はユタンポに向かって「今日、学校で嫌なことがあってね……」みたいな軽い愚痴をつぶやき、それに対してユタンポはただ、ニャーと答えるだけである。これがとても湿っぽくて、同時に温かみがある。こういうのはギャグではあんまりないのだが、ああ、良いものを見ているな、という気分になる。

自宅で一人で過ごす回といえば、例えば葉月が自宅で一人で自分の貧乏性にちょっとげんなりしている回などがあり、これはこれで面白かったりするのだが、空閑の回のような良い質感と呼べるものがあんまり出ない気がする。それはやはり、愚痴る相手としてユタンポという存在がいるからでもあるが、彼女が普段学校や部室でどのような行動(演技)をしているか、読者が知っているからであるところが大きい。葉月のそれは、部室との対比があまりないし、やはりちょっと(悪い意味で)寂しい感じがある。そういうわけで、読者は空閑の学校/自宅のギャップに感じ入るようになってくる。

空閑は自分の独特な感性から出た意見を梶原空に向かって「あなたなら分かってくれるわよね、梶原さん」(「分かってくれると思ったわ」だったかもしれない)と言う回もあり、他者に向けて自分の主張の正当性を示すというか、共有したがる姿勢には、何か切実なものを感じる。空閑は序盤において割と孤高なキャラではあるが、彼女は別に他者と交わりたくないわけではないのだ。

途中、柴田真砂というOGが部室にやって来た時の話も良い。柴田と空閑は二人だけの部室で会話をするわけだが、その際に笑顔を作ってみろと言われて空閑は無理に笑顔を作る。これがとても変だ。彼女は意図的にポーカーフェイスであるというより、単にうまく笑えない人間なのかもしれない、ということが段々わかってくる。そうつまり、空閑はかなり不器用なキャラである、ということが分かってくる。そして次に柴田が部室にやって来た時には、空閑は自然な笑顔ができるようになっている。ここがまた良い。ああ、こいつ自宅でメッチャ笑顔練習したんやろな、みたいなのが分かる。個人的には空閑が自宅で笑顔を練習する回とかあってもよかったかもなとも思う。

そしてやはり彼女が決定的に変わったな、と感じるのはこの回であろう。

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ここには、もはや序盤にあった空閑のクールさというのは消えている。彼女はケイトのように他者を巻き込む形で能動的に体を張った一発芸を始める。もちろん、これは階段落としやボールぶつけの回の類型ではあると思うが(そしてやっぱりちょっとある種のポルノだと思うが)、それらは基本的に受動的なアクシデントであり、この回には彼女のはっきりとした能動性が見える。

上記画像の最後のコマで彼女が一体どういう感情を抱いたかは定かではない。でも多分、そんなに嫌な気持ちではなかったんじゃないかと思う。この回はドアにつっかえ棒をかますという一連のいたずらの流れの中の最後に空閑が一発芸として「つっかえ空閑」と言い出す。多分、彼女も何かやりたかったんだろうと思う。ノープランで始めたようにも思えるし、けっこう恥ずかしかったんじゃないかとも思うが、多分、空閑は楽しんでいるだろう。

7巻以降はキャラが再編成され、キャラクター達の肩の力が抜けて振り切った感じで自己主張を始めたような雰囲気があるが(それが面白さのグルーヴを生み出しているが)、空閑のこうした行動もそうしたものの流れの一つであるとも言えるだろう。

11巻では、こういう空閑の体を張った積極性やちょっと不器用なところを他の部員たちが認識し始め、氷室風が人間凧上げの際に巨大凧に空閑を縛り付けて走り出すという回も出てくる。氷室風は作中内でちょっとバイオレンスな役割を受け持つことが多く、二人のシナジーでそのようなことが生まれる。まぁ見ようによっては度の過ぎたイジリとも見えなくもないが、それはやはり11巻という積み重ねが存在するわけで、彼女たちの相互理解の上に成り立っている遊びといえるだろう。

終盤の美術部ピクニックの回では空閑が大量のタコウィンナーを作ってくるくだりがあり、うわぁめっちゃ健気やなあ、と思う。

また終盤になってくると休日は大庭月夜と一緒に遊んでいることが多く、顔ハメ看板に普通に(ギャグとかをせずに)顔をはめて大庭に写真を撮ってもらう回なんかもあり、ここもすごい良い。空閑と大庭のペアは独特の安心感がある。大庭は美術部内で最も影が薄いことをアイデンティティーにするキャラで、それゆえに下手すると他のキャラより強烈なキャラになっている部分はあるが、やはりちょっと自虐的すぎるキャラでもあるような気もするので、休日の公園で空閑と大庭が二人で話しているのを見るとほっこりする。それは作者のバランス感覚であると思うし、空閑のキャラとしての優しさでもあるように思うし、空閑にとってはホッとできる相手でもあるんだろうと思う。

 

  • 涼風コンビ

スケッチブックにおける外郭。額縁。メタ的存在。作中を通して安定して定型的な漫才・コントを披露する田辺涼氷室風のコンビ。彼女ら二人はやはり作中において特別扱いになっている。二人は巻末漫画でメタ的に作品に言及する。

彼女ら二人について「オッ」となるのは、どの巻か忘れたが芸人モードが外れて二人が素の姿で昼飯を食ってるシーンだろう。ふきだしの文字もあえて小さくしてあって読みにくいし、すぐに田辺涼が「いつまで見てるんですか?」(見世物じゃねえんだぞ)と他のキャラをすぐにシャットアウトしてしまう。これはすごい良かった。二人だけの時は彼女たちはもっとくだけた感じで喋るし、風は涼に対してやっぱりちょっとコミュニケーションが雑だ。そしてそれを美術部員ら他者に見せたくないというのも良い。彼女らは演技と素、美術室とプライベートを切り離してしまう。彼女らは隔絶された二人だけの世界にいる。

二人だけの漫才モードの回は、明確に読者に向けて目線が向けられている。他の美術部員が互いの顔を見て話すのと比較して、二人は読者を見て漫才を行う。テレビだ。彼女たちのプライベートは紙面に表出しないし、それはそれで良いのだろう。巻末漫画をやる上ではそうした完全なる演技キャラというのは大事なようにも思う。

田辺涼は他のキャラとの絡みも風と較べて多い。好きなのは「今日は相方が休みでして……」と言いながら空の横に座る話で、あそこは妙な緊張が走るのが良い。空も「えっ!?」みたいな感じで焦る。個人的にはその流れで、他のキャラと無理やり漫才を始めても面白かったように思う。(まあそうなると風の取り残され感が強くなってしまうけど)

また、バレンタインデーの回で涼が大量の板チョコを持ってくる話が良い。「教室で大量のチョコを広げて、クラスの男子たちに"男子全員に義理チョコ配るつもりかよ~ホワイトデーの返しめんどくせ~"と思わせて全部一人で食べ出すギャグをやった残りです」とか言うの、お前、それマジか????みたいな気持ちになってしまった。スケッチブックは作中通して恋愛要素は皆無で、バレンタインデーの回においてもそういう話は出てこない。この回に男性である部長は料理上手キャラとして登場するが、それは男性というよりも保護者という感じでチョコを渡される相手ではないし、根岸に至っては登場しない(根岸がいれば、おそらく俺にもチョコくれ~みたいな話に転がった可能性が大きいが、作者はそれを良しとしなかったんだろうと思う)

とにかく、田辺涼はクラスの男子の目線を意識したギャグを語られなかった外部で行った後で、美術室にやってきたわけだ。こわすぎる。田辺涼は普段一体どういう感じでクラスで過ごしているんだろう、と思わされる。そんな大量チョコ芸をやられたら、完全に壊れてしまう男子がいるだろ。絶対に変なこだわりを持って田辺涼を眼差している、後方彼氏面した男子のクラスメイトとかいるだろ、とか想像してしまう。えぐいな。

バレンタインデー回では根岸の妹であるみなもが登場するが、彼女は恋愛イベント観念の薄い美術部員に対して、えぇ……という反応を取るのが面白い。彼女は半ば外部である。終盤の巻末漫画では涼風コンビの他に根岸みなものデフォルメキャラである「みなもん(笑)」が登場し、涼風コンビに輪をかけて自由なふるまいを行う。終盤ではそうした巻末漫画のノリが自然と本編にも流れ込んできているように感じる(そして、それは肩の力は抜けた感じで心地よい)。根岸みなもは年上である美術部員たちにあまり敬語とかを使わずにずけずけと物を言うし、部員たちもそれを許容している。聡いことを言う年下キャラみたいなものとして確立される。まぁそれにしても根岸(妹)が登場しているのに根岸(兄)がバレンタインデー回にいないのはちょっと独特のものがある。

 

神谷朝霞。立ち位置としては案外、氷室風あたりに近いものを感じる。神谷についてはアニメ版の小清水亜美の演技がかなり怪演という感じで良い。部長との木炭の消しゴム代わりの食パンのくだりで、「アヒャヒャヒャ」と笑う神谷は、ちょっとだけ癇に障るというか、エピソードと相まってあまり自分を俯瞰視できない空気を読めないキャラという感じが伝わってくる。この笑い声は過度な感じではなく、本当にちょうどいい感じなのである。この演技を指示した人は凄いと思うし、それを受けて演技した小清水亜美はやっぱりすげえなと思う。

美術部において最も才能のある人間として描かれているキャラはある意味で神谷だと思うし、部長と根岸がデカい物を運んでいる時に物を段ボールで覆って引きずっていく神谷はあまりにも頼もしい。仕事のできる奴だ、という感じになる。

神谷の家は兄妹三人だけで暮らしており、ここの質感もけっこう面白い。なんというか、ここはある意味で良い寂しさ、健気さみたいなものが出ている気もする。兄妹三人ともが少し抜けた感じがあり、それを互いに見つめながら生活している。

 

以上。