人間が折り重なって爆発した

人間が折り重なって爆発することはよく知られています。

『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』の分解と再構築の試み

これは何?:

俺ガイル感想パート3。

8時間くらい他人と感想を話していて、考えがまとまってきたので書く。

また、俺ガイルという作品を分解してリバースエンジニアリングしてみたいという欲望があり、その一端としてまとめていく。

 

注意事項:

俺ガイルのネタバレがある。

 

本文:

俺ガイルが俺の中であまりに巨大になり過ぎてしまっているので、本当にどうにか解体したい。できればリバースエンジニアリングしたい。ここで行われていることは一体、何なのか。

俺ガイルは文学だという話があるが、まあ広い意味ではそうだと思うが、それはちょっと罠っぽいというか、作者は罠として想定していないとは思うが、それは何か別の深みにハマってしまっているように思う。

個人的なことでいえば、俺ガイルは文学というより宗教だと思う。あるいは、世界みたいなことで。お前何言ってたんだと思われるだろうが、多分そうだ。「CLANNADは人生 Fateは文学」とか言ってた人間もこんな気持ちだったのかもしれない。(俺はどちあもプレイしてないので含意は知らない)まあ、文学だろうが世界だろうが沼っていることには変わらないのだが。

俺ガイルの基盤を成しているもの。それは圧倒的なまでのキャラクターのシミュレーションである。これは個人的な定義だが、小説の四大要素はストーリー、キャラクター、設定、語り(文体)だと思う。明確に四要素が独立して存在しているわけではないのだが、それでも小説を作る上で多くの人は基本的に上記4つについてまず考えるのではないだろうか。

俺ガイルはライトノベルであり、キャラクター文芸であり、(少なくとも最初は)広義のラブコメである。俺ガイルの特徴というか特異な点は、上記4つのうち、キャラクター要素を突き詰めたことにある。

俺ガイルの冒頭部分はこんな感じだ。比企谷と雪ノ下と由比ヶ浜は平塚先生の手によって奉仕部に集められ、他の生徒から寄せられる問題を解決しながら、奉仕部内の関係性を深めていく。しかし比企谷はラブコメテンプレ的な始まりを拒否し、関係性をリセットしようとする。また、彼は奉仕部に寄せられる問題をぼっち・人間不信的な視点と手法で解決する。

そうした話の中で少しずつ各キャラクターの解像度が上がっていく。キャラクターのシミュレーションが少しずつ精緻になっていく。そして個人的な体験で言えば、文化祭(一期アニメ最終話・原作6巻)あたりで、比企谷について何らかの臨界点を迎える。シミュレーションが精密になり、キャラクターが高度に立ち上がってきた時に、本当に目の前に比企谷が立ってしまう。比企谷が立体的にどういう内面をもっているかを、言葉上での理解ではなく、実感として認識する。具体的に言えば、比企谷が異常な人間で本当に傷ついている人間であることを実感してしまう。そしてそのことを読者である自分が実感した時に、どうやら他のキャラクターや作者も比企谷をそのように感じていることを、俺は理解してしまう(各キャラクターはずっと前から理解していて、作者と読者が同時に気づくみたいな感覚の方が近いかも)。突然、俺はキャラクターの理解の輪の中に投げ込まれる。いや、実際は突然ではなく、ずっと輪の中にいたのだが、気づかなかったというか、ヌルッといつの間にかいるというか。そういう形で順次、他のキャラクターも俺の中で立ち上がっていく。彼らは独立した存在で、互いにコミュニケーションを交わし、互いに理解し合っていることを、俺は理解する。そしてそのコミュニケーションは、かなり現実感があるというか、リアリティのあるものとなる。このあたりのことは以前の2つの記事でも書いた。

hiragi-noon.hatenablog.com

hiragi-noon.hatenablog.com

さて、比企谷という存在が脳内で立体的に立ち上がった時(キャラクターのシミュレーションが高度になった時)に何が起きるか。物語が変質するのである。それまではひねくれた視点での痛快問題解決ラブコメだったものが、読者やキャラクターたちが比企谷を視界の中心に据え、比企谷という命題に取り組む話へ変質する(少なくとも6~9巻あたりの話はそうだろう。内容的には文化祭からクリスマスイベントあたりまで)

感想を話し合っていた人はこのことを「物語が空中分解する」と表現していたが、個人的に言えば、これはキャラクターが(作者とは別に)独自に問題(あるいはそれは別の物語ともいえるかもしれない)を発見してしまった、という感覚に近い。あるいは、こう言ってもいい。俺ガイルは途中から物語ではなくなる。

俺ガイルの世界でキャラクターのシミュレーションが高度になるにつれ、各キャラクターは読者や作者のレイヤーまで上がってくる。何なら読者より上にいってしまう。彼らは現実になる。よって彼らの抱える問題もまた、現実になる。そして現実となった問題は容易に解かれるものではなくなる。現実に生きる我々の問題がそうであるように。俺ガイルを読み進めるうち、いつの間にか読者はそのことを納得してしまう。

もちろん外形的には問題はいくつも解決される。文化祭や生徒会選挙、クリスマスイベントetc……。それは我々が生きる現実がそうであるように、実施され、見た目上は成功し、過ぎ去っていくイベントだ。しかし彼らの内面の問題は容易なものではなくなる。

読者がキャラクター(や彼らの抱える問題)を俯瞰できることはもうできなくなる。なぜなら読者かそれ以上のレイヤーに立ったキャラクターは、他のキャラクターを読者以上の認識で観察し、理解し、察し、悩み、コミュニケーションを取るようになるからだ。彼らは自分たちの問題について読者より深く考えるようになる。

そして(その前からすでにそうであったように)作者は完全にキャラクターに行動の権限を委ねてしまう。読者はキャラクターに対し、お前がそう思うなら、そうなるな、それは事実だな、と確定した認識をもつようになる。それはもう(少なくとも一般的なエンタメの)物語の構造ではなくなってしまう。ここに至って、読者は文章から作者の手つきが見えなくなっていく。これはけっこう、驚異的な体験だ。

一般の物語というかエンタメのフィクションでは、話の構成を上手く成形したり省略したりして話をまとめ上げてしまう。しかし、俺ガイルの後半はそういうことが起きない。キャラクターは自分の考えをもって行動し続ける。それらのシーンがどんなにつまらないものであろうが、彼らの問題が解決しなかろうが、それは事実として確定し続ける。それはつまり、我々が生きる現実だ。それは(ある意味では、上手い構成のフィクションに慣れた)読者にとって新鮮ではあるが、しかしひたすら引きずり回されることでもある。読者にできることはせいぜい祈りだけだ。

物語をやめてしまうとフィクションは普通面白くなくなるのだが、しかし俺ガイルの後半には何か恐ろしいほどの吸引力がある。その正体は読者がキャラクターたちの会話や行動や考えていることを理解できることにある。理解できることが嬉しい、というどこか原始的な感覚になっていく。

俺ガイルにはキャラクターの行動や言動を記述する文章に無数の違和感が埋め込まれている。例えば分かりやすいところで言えば、マラソン大会の後で保健室で比企谷と雪ノ下が二人きりになるシーンがあるが、比企谷が保健室から出ようとして扉を開けた時に、目の前に由比ヶ浜が立っていて、慌てている動きをする。これはある程度理解力のある読者なら、由比ヶ浜が保健室の中にいる比企谷と雪ノ下の様子をのぞくなり聞き耳を立てていたことが分かる。だが、そのことは比企谷も雪ノ下も由比ヶ浜も口にしない。誰もそのことを口にせずにシーンは流れていく。つまり、読者には「俺だけが分かっている」という感覚が生まれる。普通ならそういうことになる。しかし俺ガイルではもう一歩進んで(これは別に俺ガイル特有のことではないと思うが)、比企谷と雪ノ下も由比ヶ浜がのぞいていたことを理解しているということだ。そして、由比ヶ浜も二人がそう理解していることを理解している。そしてさらに比企谷と雪ノ下は、由比ヶ浜がそのように理解したことを理解する。そして最後に読者も理解する、ということである。つまり、全員分かっている。その上で、各キャラは誰もそのことに触れようとしない。ただお互いに察するだけだ。読者は描写を理解することで、キャラクターの理解の輪の中に引き込まれる。それがキャラクターが読者かそれ以上のレイヤーに上るということだ。

クリスマスイベントの企画会議の時に一色いろはが一度だけ遅れてくるシーンがある。比企谷は彼女を探しに行き、入れ違いにもなったりするが、とにかくいつも通りコンビニから買い出しで出てくる彼女を見つける。そしてその姿はいつもよりしょんぼりしている。比企谷は大丈夫かと問いかけ、一色は空元気で応じる。比企谷はいつものように買い出しの袋を持ってやり、二人で会議室に向かう。要するにこれは一色いろはが難航する会議に心がちょっと折れかけているシーンである。会議に遅れたのは行きたくなかったからだ、と読者と比企谷は察する。一色はおそらく比企谷が察してくれたことを理解しているし、ありがたいとも自分が情けないとも思っているだろう。だがまあ、そんなことは説明されない。ただそのように読者やキャラクターが察して理解するだけだ。この話はおそらく文化祭で相模南が閉会式をボイコットした話とも繋がっている。一色いろはは明確にここで失敗しかけているのである。それでも比企谷が一色を支えることで、そして比企谷が雪ノ下と由比ヶ浜と関係を修復し、奉仕部が一色を支えることで、どうにかクリスマスイベントは乗り越えられる。

一回目のプロムが中止になりそうになった時、比企谷は由比ヶ浜を置いて学校に戻る。その時に由比ヶ浜は泣いてしまうのだが、その次の日の朝、比企谷と由比ヶ浜が下駄箱の前で会った時に由比ヶ浜が「学校来るのギリギリになっちゃった」みたいなことを言う。それに対し、比企谷は昨日大丈夫だったかと問う程度である。そのくらいのやりとりでこのシーンは流れる。要するに、由比ヶ浜にとって比企谷が雪ノ下を助けに戻ったことは(分かっていても)ショックで、それを引きずっているがゆえに学校に来づらかったのだろう。あるいは、昨日家に帰った後も泣いてしまったのかもしれない。眠れなかったのかもしれない。とにかくそういう想像ができる。それをなんとなく比企谷も察していると思う。だが、口には出さない。由比ヶ浜も同様だ。

俺ガイルは一事が万事、こういうシーンの連続である。上記に上げた例は分かりやすいものだと思うが、もっと意図や意味が謎なシーンもある。一度だけ部室の鍵を開けるのを遅れた雪ノ下とか。飲み会の後に煙草の匂いを染み付かせた陽乃が比企谷と話すシーンとか。後者については陽乃が平塚先生と飲んでいたことを示すものだが(それより前のどこかで二人が今度飲もうねと会話するシーンがある)、その示唆には特に意味がないように見えるし、別に陽乃が飲んだ相手は平塚先生であると確定する必要がない。だが、そういう違和感が俺ガイルの文章のいたるところにばら撒かれている。読者はそうした違和感を一つ一つ拾い上げることで「俺だけは分かっている」みたいな快感(?)を得られる。あるいはそうした発見が、読者に強い印象を与える。往々にして読者は自分で発見したことを大きく評価してしまう。そしてその上で、読者はキャラたちと共に同じの理解の輪にいることに気づき、そのことに居心地の良さを感じる。

これは多分、陰謀論的な話でもある。読み取れる違和感が無数にあることで、そうした点を繋ぎ合わせるとQマップが完成するという具合だ。それは強烈な体験で、快感である。そして俺ガイルの恐ろしいところは、そうしたQマップを読者だけでなく各キャラもきちんと把握していることにある。だからこれは陰謀論ではなく、現実なのだ。作者と読者とキャラクターが同等に近いレイヤーにいて、互いに全てを理解している。

この無数にばらまかれる説明のされない違和感と、キャラクターの高度なシミュレーションは、やがて読者の頭の中に強烈な体験を生む。それは物語を生むというよりは、世界を、現実を生むということに近い。一文一文が意味ありげになる(そして実際に意味がある)。世界を構築し始める。目にうつる全てのことはメッセージと化す。キャラがどのように察し、悲しみ、考え、そして行動に移したか。それが脳の中でぐるぐる回り、そしてキャラが目の前に本当に現れる。

作者はインタビューの中でこれについてかなり直接的なことを答えている。

そもそも作品として、『俺ガイル』は読者に寄り添うタイプのものではないので、自分はこう思ったけど、どう思うかは君次第だよね、っていう作品なんですよ。こう読んでほしい、こう見てほしいといった読者へのお願いも基本的にはありません。いっそ、「〇〇さんのこの時の気持ちを考えよ」みたいな、現代文のテストだと思って読んでほしいです。あと道徳の授業ですかね(笑)。

【特集】画集『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 ぽんかん⑧ARTWORKS。』発売記念インタビュー 渡航先生×ぽんかん⑧先生 - ラノベニュースオンライン

 たしかに、これは現代文のテストだ。読者はずっと試されている。ゲーム的ですらある。達成可能な小さな課題、つまりキャラへの(ちょっとだけ隠された意図の)読解をひたすら反復して行うことで、読者の内部に理解できる喜びとキャラ像が作り上げられていく。

――また、『俺ガイル』は高校生らしい直接的なセリフによる会話が少ない点も大きな特徴だと思います。
たぶん純粋にセリフだけを追って読んだところで、さっぱり会話の意図がつかめないと思います。

でも誰かと揉めたとき、お互いの胸ぐらをつかみながら「なんだコラ!?」ってなるのはフィクションの世界だけですよね。

まあ僕の性格上の問題かもしれないんですが、「だってリアルじゃそうだもん」って思っちゃうんですよ(笑)。どんなときも空気を察して生きてきた生粋のジャパニーズですからね。

――たしかに、現実はそれとなく不快感を示すくらいが精一杯ですね。

そうそう、「う〜ん、それはちょっと、どうですかね〜?」みたいな感じですよね(笑)。

そういうときの実際の反応って、セリフの文言以上に、トーンや表情、仕草で感情を表現しているはずなんです。コミュニケーションのおよそ7割は非言語といわれていますが、その部分を小説に落とし込んで、言葉では完結しない言葉を探していくのが『俺ガイル』なんです。

第1巻の時点ではコメディ要素が強かったので意識していなかったんですけど、第2巻の後半で人間ドラマが動き出したときにそう思って、徐々にテイストが変化していったと思います。

【インタビュー】やはり俺の書くラブコメはまちがっている。『俺ガイル』渡 航が語る、逆張りの創作術 - ライブドアニュース

会話だけ追っても分からないという点や非言語的なコミュニケーションを重要視しているというのは、まさにそうだろう。それゆえにキャラクターに質感が出てくる。

終盤で平塚先生が比企谷に向かって「一言で足りないなら、言葉を尽くせ」「言葉を尽くして、真ん中に出来た空白が一つの感情を形づくるかもしれない」と言う。それはかなりこの作品のテーマだとも言えるかもしれない。俺ガイルはとにかく内側に向かって言葉を吐き出していく。けれど絶対に、核心に向かって言葉を投げかけたりしない。いきなり中心にある言葉を会話の中で言ったりしない。言ってしまえば事実として確定してしまうからでもあるし、安っぽくなってしまうからでもあるし、何より一言で形容できるものが核心であると彼らは認めていないからだ。認めると、彼らの中で何かが崩壊してしまうからだ。

とにかく彼らは本当のことは絶対に言わない。論理を尽くして嘘か言い訳ばかりを並べる。そうでない時はただ沈黙する。とにかく核心を避け続ける。でも段々と核心に追い込まれていく。そして最後に三人はどうにか何か答えを出すことを迫られる。そういうことだ。

俺ガイルを、特に6巻~9巻を読んでいると理解の輪に閉じ込めれて、特異な精神状況になるし、世界が代替されてしまう感覚がある(自分が生きている世界より作品世界の方が明らかにリアリティのある、現実として認識する)。これは人生で今まで読んだフィクションで得たことのない感覚だった。おそらく方法論として類似の作品は存在するだろうが、少なくとも俺はここまでのものを文章で読んだことはない。

俺ガイルの文章は、個人的に言わせてもらえればあまり上手くないと思う。文章が変に堅いし、変に難しい表現使うし、読みにくいし。そしてどこか書き捨てっぽい感覚もある。これはラノベの刊行ペースに起因する部分もあると思うが。あと、なんか明らかに作者が比企谷を通り越えてギャグや愚痴をかましている瞬間もある。ただ、作者はキャラクターに対して本当に真摯に向き合っていて、そのシミュレーションを文章上で走らせた時に、ヤバいものが立ち上がってしまう。個々のキャラクター、その関係性、そこから立ち上がる空間。その内容を目にした時に、文章の表面上の上手さだとか構成の上手さだとか、そういうものを圧倒してしまう。そんなものは些事になってしまう。というか、先ほど述べたように、構成はもう上手くなりようがない。上手い物語ではなくなる。作者の手つきは存在しない。

とにかくキャラが魅力的で、かつ高度にシミュレーションされること。その理解の輪にいることは、とてつもなく心地いい。彼らの会話を読んでいるだけで気持ち良い。ここは温かい世界である。だから彼らが泣く時は一緒に泣いてしまうし、彼らが喜ぶときは一緒に喜んでしまう。

さて、リバースエンジニアリングの話だ。俺ガイルの魅力的な構造やら何やらについてまとめて箇条書きにする。とは言っても同じような項目が複数あるし、俺の小説における信条も混ざっているので、俺ガイルだけの話ではないかもしれないが。あと、前回の記事でラブコメをマクロに語るのってあんまり意味ないだろみたいなことを叫んでいたが、ここではかなりマクロに語ってしまっている。単に俺ガイルを読了して少し時間が経ち、作品が少し遠くなってしまったことが影響はしていると思う。しかし今書かないともっと遠くなるので、今書けることを書く。

・キャラクターを高度にシミュレーションすること。

・キャラクターが本当のことを(安易に)言わないこと。ちょっとした所作や非言語コミュニケーションを重視すること。これはリアルっぽさを追求することでもある。

・キャラクター達が互いに理解し(あるいは理解せず)、考え、察していること。沈黙にも意味がある。

・会話文には論理と感情(意図)が乗っていること。論理だけってのは多分ない。

・ひたすら読者に現代文のテストを行うこと。行間を読ませること。直接的に言わず、読者に意図や感情を発見させる。そうした無数の問題を投げつけること。数が多ければ、一つ二つくらいテストが解けなくても、全体としての感情の流れを読者は発見し理解できるはずだ。読者を信頼しろ。読者の脳を使役しろ。

・ひたすらミクロに詰めていくこと。会話の最中でキャラクターの気持ちが切り替わっていくこと。各キャラの会話からは主語も目的語も抜け、意味が多義的になり、すれ違い、互いに慮って嘘を吐く。読者はそういうこと一つ一つに目が離せなくなる。

・キャラクターのシミュレーションを最優先とすること。お話の構成とか文章を上手くしようとかは考えないこと。キャラクターが言いそうなこと、思いそうなをことを最優先にする。ただし、序盤はキャラクターが固まりきっていないし、小説として売り込むには物語の構成を上手くする方がいいだろう。シリーズ全体の結末もお話として終わらせる上で、そうした上手いものをもってきてしまうのは仕方ないだろう(結末はキャラクターがちょっと無理をするだろう)

・ただしやはり、キャラクターのシミュレーションは序盤は泥臭くなることを避け得ないだろう。いきなり成形された銅像を作ることはできない。砂場で泥団子を作ることから始めること。

・お話が面白くなくても、キャラクターの会話がつまらなくても、作者は耐え続けること。誘惑に負けてお話を面白くしようとしないこと。ただキャラクターが現実に会話していることをそのまま描写すること。読者を信頼し、作者は話の面白くなさに対して責任を取り続けること。

・作者にできることは全体のイベントの進行管理くらい。各イベントの各シーンの会話はキャラに丸投げ。

・読者が泣くより先にキャラが泣くな。読者が怒るより先にキャラが怒るな。ただし後者はもうちょっと考えてみてもいいかも。

・コミュニティを描くこと。各キャラは主人公や読者が見ていなくても動いて考えている。キャラAがキャラBとキャラCに見せる面は違う。会話の仕方も違う。コミュニティ1とコミュニティ2でキャラAが振る舞う態度は違う。そうしたことを知れると、読者は嬉しい。出会っていなかったキャラAとキャラDが出会う瞬間なども、読者は嬉しい。

・コミュニケーションツールとしてのキャラクター性。俺ガイルでは各キャラが演じるキャラクター性について各キャラが自覚している。彼らは意図的にキャラを演じている。それはコミュニティ内での役割であったり、自己や空間を維持するための道具である。彼らは大げさにギャグをかましたりしているが、その大げさ度合について理解している節がある。あと、彼らは互いに口真似したり、口癖が移ったりしている。真似をするのはギャグとしてかなり有用である(現実でよくある)。

・コミュニケーションのハブ性。材木座が女性と直接話せずいつも比企谷を中継して話していたり、葉山の集団が最初葉山抜きでは会話が成立していなかったように。遊戯部の部室では、由比ヶ浜がアウェイであったように。

ホモソーシャルと他キャラへの論評。一色いろはについて遊戯部の面々がクソ女とか言うのが楽しい。俺も混ざりたい。なぜならクソ女でありつつメチャクチャ良い女であることを知っているから。ここでは例えばSNSであのキャラ良かったよね、みたいな感想が作品内で行われていることになる。まあ現実でも、「あの人良いよね」とか「キモいよね」とか言うし。そういうアレである。

・外形的なイベントとキャラの内面的な話を同時進行させること。俺ガイルにおいては奉仕部への依頼や文化祭、生徒会選挙、クリスマスイベントなど外形的なイベントが存在し、それを成功させることでお話としての面白さがある程度担保されている。そして同時進行で内面的な問題を進展させている。外形的には成功するが、内面的には失敗していると、話が印象的になる。つまり、修学旅行の告白依頼はどうにか解決するが、三人の関係性が険悪になったり、生徒会選挙の問題は解決するが雪ノ下は精神的に壁を作ったり、俺ガイル中盤は奉仕部の外側の問題を解決する中で、内部はひたすら摩耗し崩壊していく(それは本当に奉仕であると思う)。

・コミュニティが閉じていないこと。俺ガイルの魅力の一つは、奉仕部内の三人の閉じた関係性に終始せず、クラスや学校という空間を描いていることだろう。これは奉仕部が外側の問題を解決していく装置であることで担保されている。学校というある程度大きな箱庭の中で、関係性のネットワークを大きくしていく。そしてその輪の中にいることは、読者にとってとても居心地が良い。ずっと彼らの会話を見ていたいという気持ちになる。これは二次創作的な目線から言っても極めて魅力的で、例えば東方Project的なものだろう。まだ語られていない物語、まだ語られていない可能性、まだ語られていない関係性が、そこには無数に存在する。

外形的なイベントで話を回すこととコミュニティが閉じないことは上手く組み合わさっていると思う。俺ガイルはかなりお仕事モノとしての側面が強い(最終的な4人のメンツはハーレムというより、優秀なお仕事遂行チームと形容した方がいいだろう)。彼らは仕事を遂行する上で、あまり関わりたくない人間にも関わっていかなくてはならない。それはほとんど現実の会社みたいである。

・キャラクターのメンバーのバランス性。これについては俺はあまり深い理解を持ち合わせていない。が、全員が本当のことを言わなかったり、嘘ばっかり言ってるとマジで意味不明になるし、ある程度本当のことを代弁したり説教したりしてお話全体を整理するキャラが必要になってくる。葉山や平塚先生あたり(部分的には陽乃や小町)がそうだろうか。しかし彼らもまたキャラクターであって、他のキャラのことは理解し、代弁するくせに、自分のことは語らない(小町はけっこう正直だと思うが)。このあたりのメンバー全体のバランスについては創作論の本に書いてあるキャラクター類型みたいなのを参考にしてもいいかもしれない。

・キャラクターの立ち上げ方

(俺ガイルではあまり採用されている手法ではないが、おそらくラブコメの古典的には)ヒロインが段々意識的にせよ無意識的にせよ、主人公に好意をもっていることを会話や所作で示し始める、ということなんだと思う。ヒロインがこっちに向かって歩いてくる。俺ガイルにおいては由比ヶ浜が割と序盤から比企谷のことが好きだが、その眼差しの理由みたいなものが比企谷のパーソナリティを読者が理解するなかで立ち上がってくる感触がある。それはきっと庇護欲とか思いやりとか同情に近いものでもあると思う。だから由比ヶ浜は雪ノ下のことも好きなんだと思う。多分、それは由比ヶ浜にとって肩肘張らなくて済む居心地の良い空間なのだろう。

まあ、キャラの立ち上げは、おそらく多面性を描くことで立体的になるはずだ。キャラAがキャラBに見せる面とキャラCに見せる面というやつだ。

・ご当地ものであること。俺ガイルは千葉愛に溢れている。これはもちろん作者の人生が反映されているわけだが、キャラクターのリアリティを出すのにも一役買っている。彼らが学校終わりにサイゼに集い、ワイワイ話す。その土着性というか。キャラの名前は全部神奈川の地名だし。これらは商業的な目線からいってもタイアップなり何なりがしやすいものではあるんだろう。今読んでいる『弱キャラ友崎くん』は埼玉だし、『千歳くんはラムネ瓶のなか』は福井である。

 

一旦ここまで。また追記するかも。