人間が折り重なって爆発した

人間が折り重なって爆発することはよく知られています。

アメリカでカバを食肉用に牧畜する計画があった

先日、橋本輝幸さんが「River of Teeth」(サラ・ゲイリー)という小説を紹介されていた。

馬ではなくカバにまたがってやっていく歴史改変西部劇だそうです。

小説自体も面白そうなのだが、20世紀初頭にアメリカでカバを食肉用に養殖しょうという計画があったというのは初めて知ったので、少し調べてみた。

というわけで、今回は「River of Teeth」の作者サラ・ゲイリーが参考にしたというウェブ記事「アメリカン・ヒポポタマス」(ジョン・ムーアレム)を要約しつつ適宜ウィキペディアの記事を参考にしながらカバ牧畜計画について話をします。

magazine.atavist.com

 

カバ牧畜計画には主に二人の男が関わっている。アメリカ人のフレデリックラッセル・バーナム、そしてボーア人のフリッツ・ジュベール・デュケインである。前述の記事ではこの二人の人生を軸にカバ牧畜計画が語られる。

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Frederick Russell Burnham - Wikipedia より「Major Burnham in his British Army uniform in 1901」)

フレデリックラッセル・バーナム(1861-1947年)はアメリカ人で、10代の頃からカリフォルニアでカウボーイや西部開拓者に紛れて生計を立て、ウエスタンユニオン社の配達員として働いていたりしていた。14歳の時からアパッチ戦争に民間人の斥候・トラッカー(インディアンを追跡して捕まえたり殺したりする人)として参加し、1880年代初めにはPleasant Valley War(羊飼いと牛の牧畜の家族の間に起こった紛争?)(バーナムは負けた側についていた)に参加したりした。高校に通ったこともあったようだが、途中で辞めている。23歳の時に結婚し、カリフォルニアでオレンジ農家を始めるが上手くいかず、冒険心に駆られてアフリカに渡ることになる。

1880年代のアメリカは開拓時代の終りに差しかかっていて、西部の土地を開拓者に安く売る制度なんかも廃止された。そんな時期にセシル・ローズケープタウン-カイロ間鉄道施設計画をやったり、アフリカ大陸で先住民やボーア人相手にドンパチやってイギリス植民地を広げようとしたりしていたので、バーナムはロマンを感じたということらしい。そしてボーア戦争に身を投じていくことになる。 

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セシル・ローズ - Wikipedia より「ケープタウンからカイロへ鉄道用の電線を敷設するローズ。ローズの名前とロドス島の巨像を引っ掛けた同時代の諷刺画」)

(歴史の教科書とかで有名なやつですね)

このボーア戦争での功績によりバーナムはアメリカ人であるにもかかわらずエドワード7世(つまりイギリス)から勲章を受けている。

2回のボーア戦争の合間にはクロンダイクのゴールドラッシュに行ったり、米西戦争に参加しようとしたら戦争の方が先に終わっちゃったみたいなこともあったらしい。

ボーア戦争後はグッゲンハイム家やJPモルガン、ジョン・ヘイズ・ハモンドなどの金融家の後押しでメキシコでの銅鉱山開発や灌漑プロジェクトに携わったり、メキシコ旅行でエスペランサ石を発見したり、第一次世界大戦勃発で不足したマンガン(鉄鋼を作る際に必要でドイツからの輸入に頼っていた)の問題を解決するためにマンガン鉱山を探し当てたり、カリフォルニアで油田を掘って一発当てたり、自然保護団体に参加したり、オオツノヒツジの保護運動に尽力したりしたらしい。ちなみにスカウト運動の創始者ロバート・ベーデン=パウエルは著書を書く際にバーナムの協力を得ている。

バーナムはカウボーイやインディアンと交わる中でサバイバル術や偵察・戦闘の術を学び、ボーア戦争の中でそれが開花した。バーナムの身長は162cmほどだったが屈強な男で、煙草も酒をやらなかったらしい。

ともあれボーア戦争を終え、カリフォルニアで比較的静かな暮らしを送っていた時期にバーナムはアメリカ議会にカバ牧畜の提案を投げかけることになる。

1910年、バーナムはロバート・ブルサード英語版下院議員と共に新規食料供給協会(New Food Supply Society)を設立した。同協会は当時深刻な問題とされていたアメリカの食肉不足を解消する為にアフリカからの野生動物輸入を推進する事を目的としており、ブルサードはこの問題の専門家としてデュケインを選んでいる[8]。この計画を支援するべく、下院法案23261号(H.R. 23261)、通称アメリカ・カバ法案(American Hippo Bill)が提出された。この法案では、新規食料源の確保および南部で水路阻害などの問題を発生させていたホテイアオイの駆除を兼ね、ルイジアナ州バイユーにて輸入したカバを養殖するべく予算250,000ドルの調達を求めるものであった[34]農務省のほか、『ワシントン・ポスト』紙[35]や『ニューヨーク・タイムズ』紙[36]のような大手メディア、そしてセオドア・ルーズベルト元大統領もこの計画の支持者で、カバ肉は「湖牛のベーコン」(lake cow bacon)という表現で宣伝された[37][38]。農務委員会の直前にデュケインがこのテーマについて専門家の立場から語った証言が議会議事録英語版に残されている[20][39]。結局、この法案はわずかに賛成票が不足して議会を通過せず、新規食料供給協会も間もなくして解散した。

フリッツ・ジュベール・デュケイン - Wikipedia より)

1910年1月、バーナムの書いた「Transplanting African Animals」がニューヨークの雑誌に掲載された。3月にはブルサード民主党議員がカバ法案を提出する。

バーナムとその友人らはカバの他にもアンテロープクリップスリンガーやオリックスやウォーターバックなど)やキリンなど30種類を輸入することを計画し、費用として50,000ドルを調達し、セオドア・ルーズベルトに面会するにまで至る。

ブルサード議員はカバの輸入について当所は食肉を目的としておらず、それは専らホテイアオイの駆除に向いていた。

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ホテイアオイ - Wikipedia より)

(日本でも池とかにプカプカ浮いているので見たことがあると思う)

ホテイアオイ1884年ニューオリンズで開催された世界綿工業100周年記念博覧会で日本の使節団がお土産として配り、フロリダの住民がそれを川に放ったことでアメリカ南部に根付くことになった、とされている。

ちなみに日本語版Wikipediaにはこれに対して疑義が呈されている。

米国の南部では日本以上にこの植物によるハザードが問題になっている。米国へのホテイアオイの侵入は1884-5(明治17-18)年にニューオリンズで開催された World’s Industrial and Cotton Centennial Exposition で、日本の使節団がお土産として配ったからだ、との説がある。確かにこの見本市に日本政府はブースを持ち、香蘭社製等の薩摩焼などの陶磁器や、屏風などの美術工芸品、高い技術を誇った金属製品を展示即売していた(Guidebook through The World's Fair and Cotton Exposition New Orleans 1885)。しかし、日本は勿論ホテイアオイの原産地ではないし、またブラジルなどの原産地から購入して輸送するほどの余裕があったとは考えにくく、日本の関与は何らかの誤りではないかと思われる。この見本市から持ち帰ったフロリダの住民が、川や水路にリリースされ繁茂して、20世紀初頭には温暖で水の豊かなフロリダではホテイアオイが経済的・環境的に大きな問題となっていた。当時社会問題となっていた食肉不足とこのホテイアオイ問題を一挙に解決しようという案がだされた。発案したのは、アフリカに詳しい探検家のFritz Duquesne英語版 と、南アメリカの軍人Frederick Russell Burnham英語版 で、ルイジアナ州選出議員のRobert Broussard英語版 と組んで、アフリカからカバを移入して大規模牧場をつくり、彼らにホテイアオイを食べさせ,その肉を食肉として市場に出そうという計画で、1910年には米国議会公聴会まで開かれた。しかし結局この案は受け入れられず、沼沢地を干拓し牧草地化して肉牛を飼育することで、食肉不足を解消することとなった。この興味深い歴史の経緯は人間模様も絡めて(Jon Mooallem 2013)に詳しいとのこと。

ホテイアオイ - Wikipedia より)

ホテイアオイがどう問題かというと、

繁殖力が強く、肥料分の多い水域では、あっという間に水面を覆い尽くし、水の流れを滞らせ、水上輸送の妨げとなり、また漁業にも影響を与えるなど日本のみならず世界中で問題となっていて、「青い悪魔」と呼ばれ恐れられている。冬季に大量に生じる枯死植物体も、腐敗して環境に悪影響を与える。さらに、水面を覆い尽くすことから、在来の水草を競争で排除する事態や水生動物への影響も懸念される[2]

現代においてですら世界の侵略的外来種ワースト100にも選ばれているホテイアオイなので、当時からかなり問題があったのだろう。ブルサード議員はこのホテイアオイをカバに食べさせて問題解決を図ろうとした。

 当時のアメリカは牛を放牧する土地の不足や都市の成長、海外での食肉需要の増加、アメリカへの移民増加などにより肉不足の状態にあったため、沼地で飼育できホテイアオイを食って食肉になってくれるカバというのは全てを解決する案に思えた。フロリダ、ミシシッピルイジアナにカバ牧場を開けば年間100万トンの肉を生産できると試算された。

バーナムの世代は鉄道が大陸を蹂躙し、バッファローが激減し、リョコウバトが絶滅したことを経験しており、アメリカが如何に自然資源を搾取してきたかを知っていただろうとムーアレムは述べている。

バーナムは今こそカバと共に再出発すべきだというようなことを発言したらしい。生牡蠣が食えるならカバだって食えるはずだ、と。農務省植物産業局の研究者ウィリアム・ニュートンアーウィンらと協力し、バーナムは公聴会で牛・豚・羊・家禽だけを食べるのは奇妙なことだと訴えた。また、(食用であるかどうかはさておき)ダチョウやラクダやトナカイがアメリカで家畜として導入されている話などをした。特にラクダは1850年代にアメリカ南西部に持ち込まれて野生化し、10代の頃のバーナムもカウボーイと一緒になってそれを捕まえたりしていた。(そのうちアパッチ族との戦争の方が面白くなったのでそっちに向かったが、ラクダの家畜市場は可能だと述べた)

そして公聴会でバーナムの後に発言したのがフリッツ・ジュベール・デュケインという男である。

フリッツ・ジュベール・デュケインについては日本語版Wikipediaの記事があるのでそちらを読んでもらう方が早いかもしれない。

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フリッツ・ジュベール・デュケイン - Wikipedia より「ボーア軍時代のフリッツ・デュケイン大尉(1900年頃)」)

フリッツ・ジュベール・デュケイン(1877-1956年)はケープ植民地イーストロンドンにてユグノー派のフランス系ボーア人の家系に生まれる。やがて彼と家族はトランスヴァ―ル共和国ニールストロムに移り、現地人を雇って農園を始める。彼の父は猟師でもあり、革や牙、角を各地で売り歩いた。デュケインは父についてアフリカの大平原で一緒に狩りをした。

猟師として生活している時、彼はに対する関心を抱くようになった[11]。黒豹が用心深い獲物であるケープバッファローを狙う時、この獲物が水を飲もうと水たまりに近づいて無防備になるのを辛抱強く待つ姿をデュケインはしばしば目にしていた[11]。そして黒豹は彼にとってのトーテムとなり、また狩猟のスタイルにも黒豹に学んだ辛抱強さが反映されていったという[11]。後の第二次ボーア戦争にてデュケインは「黒豹」の異名で知られることとなり、スパイ活動に従事した1930年代にはドイツに送る報告書にしばしば怒りに毛を逆立てた猫の絵を描いていたという[11]

 やがてデュケインは第二次ボーア戦争ボーア人側で従軍することになる。第二次ボーア戦争の最中、ポルトガル軍に捕らえられたデュケインは捕虜収容所を脱出しイングランドへ渡り、そこからイギリス陸軍に潜入してイギリス軍将校として再び戦場へ戻る。彼は故郷ニールストロムにて両親の農場がホレイショ・ハーバート・キッチナーの焦土作戦で焼き尽くされているのを見る。

伝記作家クレメント・ウッドによれば、この時にデュケインは叔父が電柱からロープで吊るされ銃剣で突かれて殺され、妹は強姦されて殺され、母親は強姦された後強制収容所に連れて行かれたということを知ったらしい。しかしこのあたりはおそらく多少の脚色があるだろうとムーアレムは述べている。

しかしともかく、この戦争で故郷の惨状を見たことで彼の中でイギリスとキッチナーへの憎悪の念が生まれたことは間違いない、とのこと。

ちなみにボーア戦争における強制収容所は近代における強制収容所の始まりとされていて、この時に25,000人がそこで亡くなったとされている。焦土作戦とは民間人を強制収容所に押し込み、彼らがもといた家や食料を焼き払うということである。

ケープタウンでデュケインはボーア人を雇い、破壊工作とキッチナー暗殺を企てるが事前に発覚し逮捕される。軍法会議で銃殺刑が言い渡されるが司法取引を行い、終身刑で投獄される。鉄のスプーンで壁のセメントを掘り進め脱出を図るが、掘ったトンネル内で石が落下し、気を失っているところを発見される。バミューダ諸島の牢獄に移されるが、そこも脱出し、アメリカへと渡る。ニューヨークで新聞記者・小説家としてアフリカの冒険物語を書いていた彼は、やがてカバ牧畜計画に参画することになる。

第二次ボーア戦争の最中、デュケインは前述の人物フレデリックラッセル・バーナムの暗殺を命じられていた。バーナムは当時イギリス軍の偵察兵総監で少佐だったため、デュケインのようにバーナム暗殺の命を受けていた人々が他にもいたらしい。

また、ボーア戦争後バーナムはイギリス軍の諜報活動に関わってたが、その仕事にはデュケインの追跡に関するものがかなりあったらしい。

そして、この互いに殺し合う関係にあった二人のスパイはカバ食肉計画で協力し合うことになる。彼らが実際に戦時中に刃を交えることがなかったことは幸いで、互いにやり手であることを知っていたので畏怖と尊敬の念があったという。

ともかくブロサード議員がアフリカの動物の専門家としてデュケインに声をかけ、デュケインは公聴会でカバの他にもエランドやゾウ、キリンの輸入を勧めた。彼の話しぶりは魅力的であったらしい。

デュケインはアフリカの動物をアメリカに移植する会社を構想していたようで、1911年の春にはワシントンやニューヨークで支援者を募る宴会を催したりしていた。メニューとしてスプリングボックのスープ、ディクディクやカバのコロッケを振る舞ったという。またマッチ棒製造会社の広報活動としてペルー人とリャマの群れを連れてきてニューヨークからオハイオ州の本社まで歩かせたりしていた(?)らしい。

ルーズベルト元大統領の個人的な射撃教官になり、アフリカ旅行にも同行した。また、Thanhouser Film Corporationとグッドイヤーからの資金を取り付けてアフリカ旅行の記録映画を撮影したりしたらしい。(グッドイヤーからの資金提供はアフリカからのゴム採取を見越してのことらしい)

第一次世界大戦が勃発するとデュケインはアメリカがドイツと組んでイギリスに敵対するよう望んだが、そうはならず、ひどく失望し憤怒した。

彼はドイツ側のスパイとなり、インドゴムノキ研究者のフレデリックフレデリックスと称してブラジルに潜入した。バーで酔った英国水兵に珍しいランの球根を運んでほしいと賄賂を持ちかけたりしていたらしい(もちろん荷物の中身は爆弾)。英国の貨物船に鉱物や映画のフィルムなどと偽って荷物を登録し爆破したりもしていた。英国情報部MI5に身分がバレた際にはボリビア原住民に自分が殺されたという死亡記事を新聞に掲載させた。また、キッチナー卿が死亡した巡洋艦の爆発事件にも関わっていたとされる。(このあたりは事実関係が少々曖昧っぽい)

 アメリカに戻ったデュケインは(ドイツのスパイとは知らない)ブルサード議員に接触してパナマ運河の元主任技師に会おうとしたり、水中電磁機雷の特許を申請したりしていた。やがてクロード・ストートン大尉と名乗り戦争に関する講演を行うようになる。

デュケインはスパイとして活動するべく、新しい偽の身分と経歴を作り上げていった。当時のデュケインはハンサムで魅力的、その上に知的で、複数の言語に堪能であるという評判で、彼の監視を行っていたFBIのレイモンド・ニューカーク捜査官(Raymond Newkirk)は「『デューク』はとても興味深い話し手であったが、常に話題の中心に居なければならなかった」と評している[57]。デュケインはまた、しばしば必要以上の詐称も行った。

第一次世界大戦勃発後、デュケインの書くアフリカでの冒険物語は人気が落ち込み、やがて冒険物語に関する講演活動もやめてニューヨークへ戻った[58]。そしてドイツ側情報機関の協力を得て、「西オーストラリア軽騎兵連隊の復員兵たる戦争の英雄、クロード・ストートン大尉(Claude Stoughton)」という新たな身分と経歴を創りあげ、「現代において誰よりも戦争を知る男」(seen more war than any man at present)や「銃剣刺突3回、ガス攻撃4回、それから1度はフックに吊るされた」(bayoneted three times, gassed four times, and stuck once with a hook)などという表現で宣伝を行った[46][58]。デュケインはストートン大尉として、制服姿で戦争経験に関する講演を行ったほか、戦時国債Liberty bond)の販促活動や赤十字社などの要請を受けて愛国的なスピーチなどを行った[59][58]。歴史家ジョン・ムーアーレム(Jon Mooallem)は著書において、「ストートン大尉は大成功だった。物語が売上を、英雄的経験が尊敬を創りだし、女性達も彼に魅力を見出した」、「『黒豹』はアドレナリン中毒だったのだ……彼が創りあげた人格は実に魅力的で信憑性もあり、事実、彼はその後も多数の分身を創りあげていった……彼は恐らく注目を浴びることが好きで、こうしたパフォーマンスを行っていたのだ」と書いている[58]

 アメリカで保険金詐欺罪(デュケインは自分の鉱物サンプルや映画フィルムを乗せていた英国船が沈没したことに対し、貨物の保険金を払うよう保険会社に申請していた)で逮捕されたデュケインはイギリスに身柄を引き渡される。起訴を待っている間に麻痺を装い監獄病院に送られたデュケインはそこから脱走。ヨーロッパや南米で逃亡生活を送った後、アメリカに戻り映画会社の広報や出版社の編集長として勤め、1932年にまた逮捕される。しかし戦争犯罪について時効満了となっており釈放される。

しかし彼はスパイ活動を継続し、FBIからの監視も受けていた。

間もなくしてデュケインの監視が極めて困難であることが明らかになる。ニューカークはデュケインについて、「『デューク』は人生のすべてをスパイ活動に費やしてきた為、彼が本に書いたような追跡者を避けるトリックの全てを無意識に使っている……普通列車に乗った彼はすぐに快速へ乗り換えたかと思えばまた普通列車に戻り、回転ドアに入ったかと思えばそのまま右側から出てきて、エレベーターで上階に向かったかと思えばまた降りてきて外に出て、あるいは建物の異なった入り口から出入りを行う」と報告している[73]。デュケインはセボルドに対して自らがFBIの監視下にあると伝えており、尾行中だったFBI捜査官に対して付き纏うのをやめろと直接抗議したこともある。

1941年にデュケインを含む総勢33名のスパイがアメリカで一斉に摘発された。このあたりのことは デュケインのスパイ網 - Wikipedia にも述べられている。

逮捕されたデュケインは64歳になっており、脱獄もせず、1954年に健康上の理由で釈放され、2年後に病院で78歳で死ぬ。

話を戻そう。

1910年にバーナム、デュケイン、ブロサード、そして作家のエリオット・ロードの4人は新規食料供給協会を立ち上げ、カバ牧畜実現の為にそれぞれに活動を始める。しかしメンバーの足並みは揃わず、政治的な動向の中でキリンやアンテロープの輸入は却下される。法案は否決され、次なるカバ法案の提出は延期されてゆき、1918年にはブロサード議員が亡くなる。

農務省の研究者アーウィンはカバの代わりにコビトカバを輸入すればいいという考えを発表した。これはコビトカバがカバより小さく扱いやすいだろうという理由である。(体長150cm程度)

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コビトカバ - Wikipedia より「コビトカバ Choeropsis liberiensis」)

ちなみにコビトカバがカバの奇形ではなく別種のものであると証明されたのは1913年のことで、当時のタイムリーな話題だったのだろう。アフリカ現地では食用にもされていたらしい。

しかし結局、農務省の担当者はアーウィンらの考えを退け、沼地を埋め立てて牧草地に変え、そこで牛を飼えばいいという結論に達する。なぜなら牛の方が普通の食べ物だから。

現在、ルイジアナ州ホテイアオイのために2万ドルの除草剤を撒いている。1980年代にアフリカにもホテイアオイが進出したが、カバがそれを食べているという証拠はまだ見つかっていないという(2013年現在)

 

調べていたら2014年にエドワード・ノートンブレット・ラトナーがカバ牧畜計画の話を映画化しようとしていたらしいですね。今はどうなってるのか知りませんが。

カバの食肉化の実話!エドワード・ノートン&ブレット・ラトナー監督が映画化! - シネマトゥデイ

酒も煙草もやらない男の中の男という感じのカウボーイと嘘とスピーチが得意なイケメンスパイ(しかし家族を戦争で殺された暗い過去を持つ) の対比は確かにフィクション向けという感じがある。

 

というわけで、この話は終わり。

カバは良い。これからはカバの時代です。

ここまで読んでくれてサンキュー!!!