人間が折り重なって爆発した

人間が折り重なって爆発することはよく知られています。

『青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない』の感想

アニメ青ブタを見た。思っていたよりかなり良かった。

以下全部ネタバレを含む。

なんというか、青春モノに超常現象的なSF的な要素を持ち込むのはう~んという感じで敬遠していたのだが、キャラの会話ややりとりの質感みたいなものが抜群に良かった。
青ブタの良さはゆったりした会話というか、基本的にローテンションなキャラクター達のやりとりが良い。むやみにテンションを上げたり、ギャーギャー騒いだりということがない。そこが心地よい。
特に主人公と桜島麻衣の落ち着きはとび抜けている。とび抜けるというか、底が抜けている。そして目だ。主人公と桜島麻衣の目。巨大なものを諦めて生きて、もはやそういう人になってしまっている目。死んでいる目というより、なんかそういう風になってしまっている目。それが良い。何にも期待しないが、動じずに自分の主張はきっちり通すというか、成熟した目といえばそう。(目が死んでいるといえば、双葉理央の方がよりそういう表現になるだろうと思う)
まあ、主人公の落ち着き方が尋常ではないのでそこに違和感や厭な感じを持つ人もいるかもしれないが。(作中で大きく二回ほど精神が崩れるが)

桜島麻衣が言葉を発さずに不機嫌なため息やちょっとした体の動きで拒絶や賛意を示すのはかなり良い。声優や演出が普通に上手いんだと思う。非言語コミュニケーション。
咲太と麻衣は最初はただ互いに独白するよう喋る。電車の中で互いに同じ方向を向いて平行にコミュニケーションを取る。それがちょっとずつ(1話でもかなり進展するので急激に、という方が正しいかもしれないが)言葉のじゃれ合いのようになっていく様はかなり心地よい。(だんだん見ている俺の表情がにやけすぎて最悪になっていく)(4話の「咲太が『麻衣さんって料理とかできんの?』なんて生意気なこと言うから」のところとか本当に良いな)。1話の最後で麻衣がマンションの部屋の前に座って咲太の見上げる表情なんかは本当に良い。赤面するのはお約束として、赤面する前の表情の感じは良い。多分、それは猫だ。
1話のコインロッカーの前で麻衣は咲太の足を踏むのだが、独特の雰囲気があってすごい。視聴者には多分、麻衣が咲太になんとなく甘えているんだということが分かる。麻衣は言葉でほとんど言わないが、自分が他人から見えなくなってしまうことに恐怖を感じていて、だから他人と触れていたいのだと思う。だいたいラブコメでいうと、ヒロインが主人公の足を踏むというのは、ギャグとして描写されるのだが、ここは全然ギャグとして描かれない。ほとんど文脈なく麻衣が踏み、そして咲太はそれをギャグとして(おそらく麻衣の不安を感じ取っているがそれは言葉に出さずに)受け止めてやる。これはちょっとビビる。その場で何も説明されないが、完全にそういう描写になっている。2~3話でも咲太がことあるごとに手を繋ぎたいと言うが、それは麻衣の不安を感じ取って言っている節がある。(「キスなんていつでもできますよ」という台詞は好きだし、というかあの辺りのやりとりは好きだが、咲太に余裕がありすぎてそんな童貞おらんやろとちょっと思ってしまう部分はある)(しかしそういう人間は実際にいたりもするのだが)
まあそうはいっても麻衣の精神の強靭さには凄まじいものを感じる。咲太も麻衣も人間的完成度合が初期から極めて高いので、あまりにも大人な(ここで言う大人とは他者や社会からの影響を精神的にほぼ気にしないという意味)恋愛になってしまうというのはある。そこにひねくれとか葛藤とかはない。それがこの二人の味というか、良さではある。

麻衣の驚くべき点は、(女)友達を必要としないままに世界を横切っていることである。作中においては彼女には対人パターンが3パターンくらいしかない。咲太と会う時のモード、姉としてのモード、その他の人間に対するモードである。おそらく彼女は一般的に見れば少々歪んでいるのだが、女優業という没頭できるものと、咲太(と妹である豊浜のどか)という支えになってくれる存在がいるおかげで世界を生きていくことができる。プログラミングに没頭して高校時代を過ごすギークオタクみたいなもんである。
おそらく麻衣は両親や特に母親についてはいろいろ思うところがあるのだろうが、強靭な精神力でもってして、物語が始まる前に自力ですでにほぼ乗り越えてしまっている感じがある。(原作だとその辺りの掘り下げがもう少しあるのかもしれないが)(豊浜のどかとの人格交換異変には、おそらくこの辺りの麻衣の母親という存在に対する感情が組み込まれてはいるんだろうと思う)(咲太は親について意見を求められた時、単に「親だ」と言うだけだ)
咲太もまた達観してはいるが、歪んではいる。(妹であるかえでの為とはいえ)携帯を海に投げ捨てているし、それは社会的に見れば明らかに逸脱行為である。(咲太はかえで回で精神がヤバい感じになるが、おそらく咲太はかえでと精神的にかなり依存関係にあったのだろうと思う。かえでが楓へと人格を取り戻すのは、麻衣が登場したことで少しずつ関係の変化が起きたことにも起因するはずである。)
そしてこれが本題なのだが、咲太と麻衣のそうした歪みを回復させてやろうという風には、基本的には物語が動かない(妹と翔子が回復するエピソードでもちろん主人公は回復していくが)。それが青ブタの凄いところというか、作品の意義であるように思う。歪んだものをそのままに肯定、というより単に描写している。(古賀や双葉の抱える問題は普遍的なもので、作品内で一応の決着はつくが、それは未来永劫に解決された問題ではない。彼女らの人生にはこれからもその問題が付きまとうことが予感される。)ただ、あるように描いてる。ここもまた面白く、心地よい。おそらく二人はそうした失ったものについてある程度達観し、成熟してしまっていて、それを互いに理解している節がある。だから二人は惹かれ合うのだろう。過去は過去のままに、回復することなく二人は寄り添っている、と言えば何とも安っぽい言い方だが、多分そういうことになっている。
もちろん、誰しもそのように強く生きているわけではなく、古賀朋絵や双葉理央というヒロインが続々と登場する。

青ブタは主人公が一人ずつヒロインの問題を解決していくノベルゲー的な型になっていて、特に牧之原と古賀は咲太に対して明確に恋愛感情をもつことになる。なんとも言えないのが、咲太が基本的に各ヒロインに対して1対1で臨む構造なので、その間に麻衣は存在するものの、よく分からない存在になっている(もちろん、豊原や牧之原の回については深く関わるが)
古賀の回でニセモノの恋人を演じることになった二人のことを麻衣が聞いた時、彼女は咲太を自由にさせてやる。それはもちろん、咲太にとって古賀がかえでの姿に重なっていることが大きいが、麻衣自身のプライドと自制心が嫉妬する態度を許さない。普通に考えれば咲太と麻衣と古賀の三人で会合をもってもよさそうだが、麻衣がするのは駅のホームで二人が騒動に巻き込まれているのを横目で見るだけである。麻衣は女としての自分に自信があるし、咲太のことを信頼しているので、彼の交友関係にあまり口を出さない。私は別に重い女ではないですよ、みたいなものも感じる。
双葉理央についても麻衣の態度は一貫しているようにも思う。麻衣にとって双葉も古賀も咲太の友人であって、それ以上の何者でもない。自分の友人になる存在でもない。(古賀は最終的に時間を巻き戻してしまうので、そもそも麻衣がどれだけ古賀を認識しているのかさえ不明だが。)
個人的には青春ラブコメみたいなものにはヒロイン同士のシナジーを望むところがあるので、こういう構造にはちょっと(残念でありながらも)驚いた。タイムリープ的なズル技を多少は使っているにせよ、最初からヒロインと付き合っている状態の一本道のルートで各ヒロインのルートもきっちりやるスタイル。まあ、だから麻衣の女優業という忙しい職業や、もっと言えば咲太しか頼れる存在がいないヒロインになっているのだろう。(そういう意味で牧之原は麻衣にとってかなり明確にライバルではあった。)
麻衣と古賀と双葉はあるいは何かきっかけがあれば、友人関係を結べた可能性はあるだろう(あるか?ないだろ)。まあ、現実だってそういうものであるかもしれない。古賀はともかく、麻衣と双葉は友人を作ろうとするタイプではない。そんなことが出来てたらこんな物語は始まっていない。

双葉理央の話をする。双葉は良い。彼女が口にする「梓川と国見が女だったらいいのに」という言葉は本当にクるものがある。咲太が双葉のことを面倒くせえと言うのはたしかにそうで、これはけっこう生の人間の面倒臭さっぽいと感じる(それは自撮り云々だけの話ではない)。個人的な話で恐縮だが、現実の知り合いに同性と上手く友人関係を構築できないっぽい女性がいるので、双葉を見ながら「ああ~こういう人いるな~」となってしまった(しかも精神性が双葉にけっこう似ている気がする)。「梓川と国見が女だったらいいのに」という言葉は、たしかに友人関係となった相手がたまたま男だったことを意味しているが、なんとなくそれ以上の根深さがあるような気もする。(Wikipediaを読む限り原作の大学生編では女友達が出来ているらしい。マジで良かった。)双葉の目をフイ~っと反らす仕草や、国見への思いを語る時に机の上にだら~っともたれる仕草なんかはとんでもなく良い。こいつ絶対人の目を見ながら話すの苦手だろみたいな。だいたい常に不機嫌に見える感じで、どこを向いているか分からない目をしている。とにかくこいつはマジでダウナーな感じのコミュ障なんだろうなというか、そんな感じで。(余談だが、そういうところは高校の時に好きだったクラスメイトにけっこう似ている気もする。)
ともかく双葉の問題は根深い、と思う。国見に告白したところでそんなものは消えてなくなったりしない。双葉も咲太も国見もおそらくそれを理解していると思う。
どうでもいいが、麻衣はクズな男は切り捨てる安定さがあるが、古賀は微妙にそうではないという感じがあり、双葉に至っては全然そうではない、他のヒロインは精神的にそれ以前の問題で、みたいな感じはある。異性愛(異性への安定した距離の取り方)への適正という話。
蛇足な(そしてくだらない)話かもしれないが、双葉の回を見て思ったのは、男女の友情は成立するかという問いに一つの回答を提示しているということだ。それは当事者だけの間ではぎりぎり成立しても、それをジャッジする外部がどうしても存在してしまう。国見の彼女は咲太だけでなく双葉のことも嫌っているし、咲太は麻衣と付き合うことになる。そういう関係は関係者全員に大きなストレスをかける。多様性があるといっても生物的に男女という性別の在り方が厳然とある以上、そう簡単に成立できるものではないだろう。まあ、そういうところに物語は存在するのだろう。

古賀について話す。
古賀は普通にケツキックが良い。というか、中腰になって遊具に手をつき尻を突き出すのはマジでガッツがある。そして蹴ってやる咲太も咲太である。世界に対しての許容度がデカい。
聖地巡礼でその公園がケツキック公園と呼ばれてるのは笑う。
古賀が告白した時に咲太が「頑張ったな」と言うのは、最初は上から目線でキモいな~古賀が真面目に闘技場に立って告白してんのによ~咲太も闘技場に立てよ~と思っていたが、視聴2周目でその後の咲太の麻衣への告白が最初のループのへらへらした感じではなく真剣な口調になっていて、ああ、こいつも闘技場に立ったのか、ということが分かって良かった。
これはけっこう微妙な機微で、特に説明もされないので、マジで分かりにくい。2回見ないと分からなかった。多分、咲太は麻衣の気持ちが確認できなかったら、麻衣ではなく、率直に気持ちを伝えてくれた古賀の方に行ったのではないかという気がする。それが彼なりの誠実さなのだと思う。そういう説明は一切ないが、多分そうだ。
最初の方のループで咲太が言っていた「他の恋人を探そうかな~」は最終ループでは割とマジだったんだろう。その真剣さが麻衣にも伝わったから、最後に頬にキスするという行為に出たのかもしれない。
おそらく麻衣と古賀については順番の問題で、もし最初に咲太が古賀と出会っていて関係を結んでいたら作中での麻衣との関係はなかっただろう。

青ブタの各エピソードは基本的に恋愛やそれに近い感情の形はとるが、問題の根本は恋愛ではなく、解決する手法や結果として恋愛がくっついているだけのように思う。
ヒロインたちはたしかに咲太のことが好きかもしれないけど、それは結果・経緯の話であって、彼女たちは根本的に世界からの愛を確認したい(試したい)だけなのだろう。
双葉はボヤッとした全体的な愛に飢えているし(これはなんか言葉にしにくい。現実に口に出して表現されることがあるとすれば、単に寂しいとかそういうものだろう。その実体は本人にもよく分かっていないはずである)
古賀はコミュニティ内で自分が疎外されずに馴染んで生きていきたい、かえでも古賀によく似ていて自分が世界にいていいんだという実感を得たい。麻衣は強いが、それでも咲太がいなければ世界から全無視される状況というのは確実に彼女の心を折ってしまったはずだ。
俳優でない麻衣にも愛を注いでくれる存在(そしてその存在はもちろん俳優である麻衣も肯定してくれる)は確実に一人は必要だったのだ。それがたまたま咲太だっただけに過ぎない。(という言い方は少しアレかもだが)

麻衣と咲太は、麻衣が消える騒動が終わって良い感じの仲になるが、それは成り行きでしかないようにも思う。だから古賀の存在がトリガーになって咲太と麻衣は次の段階に進まないといけなくなる。
麻衣と咲太の関係は、他のヒロインを振ったり、問題を引き起こすトリガーになったりすることで、彼女たちに対して責任を負う関係になっていく。他のヒロインが登場するたびに麻衣と咲太の関係性は強化されていき、世界に対して責任を背負わされる。それの最終地点が牧之原のエピソードだ。

牧之原のエピソードを最後まで見た時の最初の感想は「それができるなら牧之原は最初からそれをやっとけや」だった。
青ブタの思春期症候群の設定はけっこうガバガバ論理で、単純に話を都合よく動かす装置にしか過ぎないとは思うが、まあそれにしてもそのラストでええんかという感じはある。感動したけど。泣いたけど。
まあでも考えてみれば、牧之原もまた世界に対して愛を試したのだ。
彼女が最初から時間遡行して人知れず自分の結末を変えるなんてことはできなかった。やり直した世界でも麻衣や咲太には牧之原との記憶がわずかに残っていたので、麻衣が心臓病の少女の映画に出演し世間でドナーが増えたという論理だ。
だが、それ以上に彼女には世界をやり直すだけの強烈な動機が必要だったはずだ。おそらく牧之原が二人に嘘をついて自分が犠牲になって二人の未来を救おうとしたのは本気だったのだろうと思う。そして犠牲になっていればそのまま世界はそのような形を取ったことは間違いない。
牧之原から話を聞いた後、麻衣が咲太が何か言おうとする前に「別れてなんてやらないから」と言うのは、こいつ本当に良い彼女だなという感じがある。「私も一緒に背負うから」というのも。麻衣はこういう女であり、咲太のためなら世界を捨てる覚悟がある。奴らは本気だ。
牧之原は将来恋人としたかったであろうことを咲太と共に済ましてしまおうとする。彼女は終わりを見据えている。麻衣が死んだ後、「尻には敷いてますけど、私の方が彼のことを好きですよ」とテレビで麻衣が喋っているところはかなり良い。
牧之原は一連の経験を通して、自分が咲太からそして麻衣からも大事にされていることを理解する。咲太を通して、世界からの愛を確認する。その上で牧之原はどうにか二人も救ってやろうとする。彼女の動機は自分の命だけではなくなる。
このようにして回復が行われる。
(でもまあそれにしても咲太の胸の傷はなんやねんという感じはある)
まあ、それでも牧之原が咲太の名前を呼んで最後に見せる表情には何かある。咲太が牧之原や古賀や双葉と結ぶ関係性は一口には言い表しにくいものがあり(古賀は振った相手、双葉は友人と単に形容することはできるが、多くの意味を失う気がする)、それはフィクション的には麻衣との関係性よりはるかに良いものがある。名付け得ないもの。
原作はまだ続いているが、劇場版まで見ると話がきれいにまとまっているように見える。咲太が麻衣をバディとしながら、各ヒロインを攻略し、グランドルートであるところの牧之原を救済する。
(まあ、どのルートの回復もヒロインの自力の努力による部分が大きい。咲太は愛を再確認させてやるだけだ)

咲太は落ち着き方が尋常ではないと言ったが、童貞であそこでまで落ち着いているのは個人的には直感に反する。
そもそも10代の男は自分の性欲について無神経か嫌悪を向けていると思うので、穏やかに肯定できているのは異常だ。落ち着きすぎ。
まあ、俺が知らないだけでそういう奴はいるんだろうと思う。性欲云々は分からんが、高校の時の同級生に落ち着き方がすごいやつはいたりしたし。
まあでも咲太はセクハラ発言的なものをやりすぎで、麻衣には別にいいと思うが、古賀に対してあれはけっこう度を越してないかという感じはする。多分、このあたりは普通に無神経で、他人をいじりたがりな性格なんだろうなと思う。これは場合によっては普通にキモい。
なんというか、妹の人格が戻った時の精神の崩壊の仕方といい、咲太には咲太なりのキモさというか歪み方がある。それは単に孤独であることだけでない、キモさである。

 

極端な話、普通のラブコメなら「とつぜん誰かが瀕死に陥って大切さに気づいたり」「もっともらしい教訓を言い出す奴が出てきてそれでハッと何かに気づいて走り出したり」「記憶喪失とか無理やり物語のために一波乱起こって感動をもり立てたり」するんですよ(極端な例ですけど)。旧来のストーリーとストーリーテラーはそこに腐心するんです。

hclivings.com

俺はこの俺ガイルの感想記事が好きで、よく読み返すのだが、青ブタに関して言うなら上記の引用のかなりの部分が当てはまっている。(そもそも俺ガイルも青春走りが皆無というわけではない。「本物がほしい」のところ。)
OPからして咲太がとにかく走っている。それを電車が追い越していく。そして重なるthe peggiesの『君のせい』。「君のせい 君のせい 君のせいで私 かっこつかない 君のせいだよ」
そうだよ全部お前のせいだよ。このようにして青春そのものが始まる。だが、というか、もちろん青ブタの良さはその青臭さにあることは間違いない。
3話でいきなり「学校へ行こう」の未成年の主張ばりに咲太が麻衣への思いを叫んでみせるわけで。そしてそれはやっぱりけっこう良いものなのだ。