人間が折り重なって爆発した

人間が折り重なって爆発することはよく知られています。

性愛とかの話

前回の記事で10代の男は自分の性欲について無神経か嫌悪を向けていて、穏やかに肯定することはないだろうと書いた。

『青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない』の感想 - 人間が折り重なって爆発した

今回はその延長の話を書く。

 

恋愛モノのフィクションで「恋愛感情ってどういうものか分からない」と言う女性キャラはけっこう出てくるが、男性キャラであんまりそういう描写がされないのは単に現実の男の性欲が強く、そんなことに悩まないからだろうと思う。

おそらく男性は女性より一般的に性欲が強くて、衝動が女性に向くので「恋愛感情が分からない」みたいなことをほとんど問題にしない、というか、ならない。衝動は身体として自明だから。

もちろんフィクションにおいて例外はいくらでもあると思う。例えば、コトヤマの『よふかしのうた』には恋愛感情がよく分からないと言う中学生男子が出てくる。(まあ、性的発達度合でいえばけっこうぎりぎりの年齢ではという感じもする。)(もちろん、性の多様性や性欲の多寡は個人によりけりだが。)

あと、秋★枝の『恋は光』の主人公とかもそうで、この主人公は大学生なのだが、作中のとある理由により性欲と恋愛感情をかなりきっちりと分けることが出来ていそうに思う。

秋★枝先生はおそらく女性だと思うが、多分男が描いたらこういう風には描けないんじゃないかと思う。(これは別に作品をディスっているわけではない。そこには独特のものが生まれているので。)

だがともかく男が描いた場合、多分もっと森見登美彦的なものになってしまう気がする。デフォルメ化された性欲との間で多少懊悩したりする。

(『四畳半神話体系』『夜は短し歩けよ乙女』あたりで、カウボーイみたいな擬人化されたキャラで出てきた気がする。夜は短しだったと思うが終盤で大量のカウボーイがタワーみたいになって主人公がそこを落ちていくシーンなんか、かなり良くてなるほどなあと思った。)

おそらく女性にとって恋愛感情というものは男性より社会的なものなのだろうと思う。

最近であれば、左津衣かおるの漫画を読んだ時にそれを強く感じた。

左津衣かおるの漫画は明確に男性や社会からの恋愛観への敵意があり、読んでいてかなり面白い。自分にはこういうことは多分書けないなと思う。

comic-action.com

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恋に恋するという表現があるが、それは主に相手に恋している自分の状態に酔っていることを指しているのだと思うが、人によってはその高揚感の一部分を成しているのは社会的な正しさ(あるいは単にそれは憧れと呼ぶべきか)への迎合なのだろうと思う。

大学生の頃に映画『千年女優』を初めて見たが、ラストで主人公の千代子が言う「でも私、あの人のことを追っている自分が好きなのよ」という台詞は本当に衝撃的だったことを覚えている。そんなこと言ったら元も子もないやろ、みたいな。ちょっと趣向の変わった純愛系の作品だと思っていたら、最後にガツンと殴られてしまう。今なら、ああそうねふんふんと受け入れられるが、当時の自分は(今に較べれば)純粋だったのでけっこうハア?と思ってしまった。あの台詞で主人公や作品そのものを嫌いになった人はけっこういるんじゃないかという気はする。まあ、でもそういうことはあるのだと思う。

(見たのがかなり前なので僕の記憶が曖昧な部分もあるが)作中で千代子の思い人はどう考えてもすでに死んでいるだろうし、長年生きていく中で千代子がそのことを受け入れていないはずがない。そもそも千代子と「鍵の君」の関わりは本当に短いもので、千代子が彼に対して持っている感情は過大な憧れだ。でも彼女はその感情を忘れずに一生かけて彼を追い続ける。それは「鍵の君」という人間そのものを愛しているというよりは、何かもっと別の何かである。そして、それはそれでけっこう美しいものなのだ。

最近は『ムシヌユン』や『ナチュン』を読み返している。『ムシヌユン』は露骨に性の話であり、「なんでなんだ女~」とか言ったりしつつ過激にキモく女性に向かっていく。だが『ナチュン』も性と関係ないわけではなく、どちらに通底するものとして、自分の性欲か研究かの巨大な二項対立がある。

『ムシヌユン』では俺は昆虫学者になりたかったのに~!クソ~!という感じになりながら、女に欲情して異常な感じになっていく。そしてその過程で自分が好きだった昆虫(?)と性器が融合してしまう。彼は性器を通して昆虫と交わりゲロを吐く。本当は昆虫学者になりたいし、交わりたいのは女なのに。

(『ムシヌユン』作中でも述べられるが、主人公の陰茎と融合した異星生物は、主人公が女に向ける性欲と虫への性欲を一本化してしまう(主人公が女に向ける性欲を利用する)。まず女性に興奮し勃起しないと、虫への性欲が現出しないように生理的に体を作り変えてしまう。とにかくここに至り、女か虫かの二項対立ではなくなり、(欲望の対象という意味で)女を越えないと虫にたどり着かないようになる。お前は何言ってんだという方は作品を読んでくれ)

ナチュン』でも俺はノーベル賞ものの研究をしないといけないのに~!と独白したりしながらオナニーする。この辺はけっこう、ああ、そうだなという感じがする。

これは遠くから見ればかなりしょうもない話ではある。自分が本当にしたいこと(?)と性欲が天秤にかけられているわけだ。人生という時間は有限だから。

勉強に集中したいから恋愛なんてしませんみたいな受験生と話は根本的には変わらない。生理の重い女性から見れば、本当にくだらない話かもしれないが、だがまあそういう懊悩である。(もちろん一口に男性といってもその性欲の多寡や在り方は個人によってかなり異なるし、女性のそれや生理もそうだろうと思うが。)

10~20代の男は少なくない割合でデートの最中に股間が比喩でなくドロドロになっているのではないかと思うし、それを防ぐために事前に一発ヌイていくとか、そういう生物で、そうやって世界に対してフラットに立ち向かえる存在なんだろうという気もする。(それは別に恥じるものではなく、単に仕方のないものなんだと思う)

妙な話だが、今まで、僕の異性の消費の仕方はパーツだった。またはシチュエーション。要するに興奮すれば良いという。しかし、彼女と一緒にいて、性ということが人格と結び付く形で、より良く機能するんだろうな、と思った。人格との関係性の中でこそ、性が意味の重さを持つのだと知った。

anond.hatelabo.jp

上記のものは2015年の増田文学100選の一つで、引用箇所なんかはかなり実感がこもっているように思う。

この手の話はポルノコミック批評なんかでは割と頻出する話なのかもしれないが、「俺たちは女体のパーツとシチュエーションを消費しているだけで、女と向き合っている(向き合いたい)わけではない」みたいなことだ。

彼女の笑顔や指の感覚、僕の腕に当たっていた彼女の身体性、そして、ほんのりと甘かった唇の跡が、強く優しい記憶になった。

凡庸な表現だが、まさにこの通りなのだろうと思う。現実の女というか現実の人間は、全てのパーツと五感がやってきて、完全性を伴った強烈な経験になる。フィクションはそれをどうにか(部分的に誇張したりしながら)紙面や画面に落とし込んでいく試みなんだろう。

 例えばネットにはオタクの脱童貞風俗レポ記事のような類のものがある。ああいった文章には、現実の女性を興味本位で客体化して扱っている等の問題は存在するが、執筆者のエネルギーと感動がダイレクトに出ているように思う。得てしてそうした記事の内容はどれも似たり寄ったりで、冷静に考えればそれを個としてネットに投げる意味なんて一つもない。でも、そこには書かずにはいられない体験があるのだろう。そして結局、そこからしか始められないのだろうという気もする。

 

ameblo.jp

まずBLと本物のゲイの決定的な違い。
ゲイの多くは性に目覚める思春期に「女ではなく男に欲情する自分」に気づく経験をするようです。
これはBLではほとんど描かれることのない描写。
なぜならBLは「男が好きなんじゃない、お前だから好きなんだ」という「性別を超えて好きになる」描写が一般的だから。
現実のゲイでこのような恋の落ち方はほぼありえないということです。
まず前提として男に欲望を感じる。だからこそゲイ、なのです。
そしてそれは頭でどうこうではなく体が勝手に反応する、ということなのです。

純くんのセリフに「僕は亮平と付き合いたいと思ったことは一度もない。だけど、亮平と(セックスを)したいと思ったことは何度もある。」というのがありました。
たしかにこれも女性には理解できない感覚です。

なんとなく腐女子について調べていた時に行き着いたブログ記事で、上記のような記述があった。BLの全てが「男が好きなんじゃない、お前だから好きなんだ」形式になるのかはよく分からないが、『腐女子、うっかりゲイに告る。』という作品(俺は見ていません)で出たというゲイについての話は、まあその通りかも、という感じはする。ゲイの友人にこれに近い言葉(「別に付き合いたくはないけど、やれるならやりたいよ」みたいなこと)を実際に言われたことがあり、俺もなるほどそういうものなのか、と納得した覚えがある。(もちろん、これもゲイの人たちの中でもっと様々な性愛の在り方があると思う。男であれば誰でもいいからやりたいと真に思ってるゲイはほぼいないと思う。ただ、男が女に向けるようなもっとふわっとしたような形で、日常的に会う人に性的な魅力を感じていたりはするのではないか、というような話である)

「男に性的に興奮する男」に対してノンケ男性が無意識に感じる居心地の悪さ。
女性はきっと本質的には理解できないと思います。
体の作りが違い性欲の感じ方も違う別の性別だから全てを理解することは不可能かもしれない。
でも私はドラマの中で同級生の小野くんが純くんに言った「気持ち悪い」は許せません。
自分の子供なら殴ると思います。
人としてダメです。
心に根ざす差別意識や無意識の嫌悪感。
難しい問題ですが…

「気持ち悪い」という台詞が作中でどういう文脈で言われたのかよく分からないが、ゲイ一般に対してそのように言ったのであれば、たしかにそれは道徳的に正しくはないように思う。ただ、個人に向けた一方的な好意であったり、一方的に性行為をしたいという意思表明であれば、それを向けられた個人が「気持ち悪い」と言うことは割と認められているように思う。これはゲイだけでなく、男女間でも普通にあるはずだ(特に男性の側が女性に性行為を求めて、女性の側がそれを拒絶する場合には割と認められていることであろう)(もちろん、これについては様々な道徳的な立場が存在するであろうが)

「洗礼ダイアリー第四回:セックスすれば詩が書けるのか問題」

https://www.webasta.jp/serial/senreidiary/post-66.php

では、下記のような記述がある。

斉藤環さんと、心理学者・信田さよ子さんは、男性の身体性を巡って次のように話している。

 斎藤 身体の自覚がないんです。
 信田 ほう! ない?
 斎藤 これはご存じなかったでしょう。精神分析的には、男性は身体を持っていないんですよ。言い換えると、男性の身体は透明で、日常的に身体性をほとんど意識していないんです。

「臨床現場から見た母と娘」『母と娘はなぜこじれるのか』(NHK出版)

「いくつでお嫁にいくの?」「子供は何人欲しい?」という問いは、幼稚園児から大人まで、女性であれば延々と浴び続ける。そこに込められているのは「あなたは産む性なのだから、立派なお母さんになりなさい」というメッセージだ。また、夜道の一人歩きについて「気をつけなさい」と言われるのは、女性が圧倒多数だろう。なぜ気をつけねばならないのか、という理屈の前に、「女の子は危ないから」という注意だけが植えつけられる。実際、痴漢に遭うことだって決して珍しくない(私が初めて痴漢被害に遭ったのは、六歳の頃だ)。

女性と違い、男性が他者から性欲を向けられることは、社会の中であまり機会がないように個人的には思う。また、男性が自身の容姿や身体を明確に言葉に出されてジャッジされる機会も女性に較べれば少ないように思う。大多数の男性が可もなく不可もない状態で宙づりにされている。彼らは眼差される側ではなく、眼差す側である。そして眼差しは、一方的で過度になってようやく、相手から「気持ち悪い」という反発として返ってくる。それまでは男たちはずっと透明人間なわけだ。俺たちは自分のことすらよく分かっていない。

 

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最近読んだ記事だと、上記のものも良かった。そうだな、という感じがする。例えば10代前半の頃にテレビドラマや映画を見て、「何でこの男は彼女を殴るんだ。俺だったらそんなことはしないのに。女の方もどうしてこんな悪い男と付き合ってるんだ」と思ったものだ。まあ別に殴らなくなっていい、浮気だとか、連絡をあまりしないとか、そういうことでもいい。とにかく誠実で優しい自分ならもっと上手くやるのに、みたいな感情が湧く。ピュアだったので。

でもまあ実際、他人と付き合っていくと全然そうではないことが分かってくる。自分が例えばかなり面倒くさがり屋だったり、飽き性っぽいことが分かってくる。ビビる。むしろそういう人間のために結婚制度があるんじゃないかとすら思えてくる。いや、そうじゃない人ももちろんいるが……。

ほわせぷ氏がかつてnoteに「非モテがモテないのは、彼らにとって恋愛の相手とは自分の青春を埋めるためだけの存在でしかないからだ。彼らにとって相手は誰でもよく究極的には目の前の相手は不要だ。だから彼らが送る求愛のメッセージは軽薄で、相手にも意図を見透かされてしまう。一方で暴力を振るうという行為は物理的に相手にのみ向けられていて、そうした(自分勝手ではある)行動を愛として好意的にとる人間には、この上ないコミュニケーションになる」みたいなことを書いていた。完全な引用ではなく、少々改変を加えているが、まあだいたいこのような内容だ。(当該記事はすでに消えているのでリンクの張りようがない)

俺はこの意見に同意できるわけではないし、いや普通に暴力はあかんやろと思っているが、それはそれとして、暴力という行為が相手への執着として現れることはあるように思う。思い通りにならない状況になった時、喧嘩になって感情がブチ切れた時、それが暴力に出るということはある。そして、その思い通りにならないという気持ち自体、執着がなければ出てこなかったりする。もちろん恒常的に相手を選ばず暴力を振るう人間はいるし、力の弱い女性を力で屈服させるのはクソの所業だ。だが、カップルの関係にある二人の中が継続するには少なくともどちらかに(というより両方に)執着がないときびしいものがある気がする。そうでなければさっさと結婚などの枠組みを利用するしかない。

現代社会において、他人に踏み込まず執着しないというのは美徳だが、しかし特定の相手を選ぶというのは、それと相反するものがある。

自分がもっている自己像は全然正確なものではなく、自分がもっている相手の像も幻影に過ぎなかったりする。それが両方擦り合わさった時に、きちんと関係性を結ぶには多分けっこう時間がかかるのだろうと思う。