人間が折り重なって爆発した

人間が折り重なって爆発することはよく知られています。

『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』総括

これは何?:

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』の全体感想

 

目的:

とにかく俺ガイルに対する感情を一通り吐き出したい。

全てを過去にしたい。解体し、流す。川。

 

注意事項:

原作・アニメともに最後のネタバレまで書いています。

 

本文:

俺ガイルは能動的にのめり込むに足る作品だと思うし、本当はひたすら全てを細切れにして解体して理解したいのだけど、それをするには俺の気力が足りないように思う。だから取り留めもなく書きたいことを書く。 

ブコメというか、恋愛モノの物語に対して、何かマクロな見方で語ることはほとんど意味がないような気もする。少なくとも俺ガイルについては、ひたすらミクロな、一つ一つの会話文に良さが仕込まれていると思う。だから、遠くから彼ら彼女らの挙動を語ったところで何も見るべきものはないと思う。

恋愛物語はメチャクチャに脳を使役してくる。少なくとも俺ガイルはハマりこんでいる間は、脳を焼き切るようなオーバーヒートする感覚があった。(俺が同時期にどうやら熱中症にかかっていたことも多少の関係はある)(ただ人生で感じたことのない特異な精神状態に、キャラクターが実体として脳内で立ち上がる瞬間に立ち会えたことは間違いない)

どうして脳が使役するかというと、会話の最中でキャラクターの気持ちが切り替わっていくからなんだろう。ここにミクロの所以がある。彼ら彼女らの会話からは主語も目的語も抜け、意味が多義的になり、すれ違い、互いに慮って嘘を吐く。そういうこと一つ一つに目が離せなくなる。これは本当に安易な議題だろう。それでいて俺が今まで全然考えたことのなかったものでもある。

例を挙げればきりがない。たとえば最終巻14巻でベンチで比企谷が由比ヶ浜を振るシーンでは、おそらく最初は本当に由比ヶ浜は比企谷に好きだから付き合ってほしいとお願いするつもりでいたのだろう。少なくとも比企谷が雪ノ下との関係の終了に同意しているようだと分かった時点では。由比ヶ浜の「じゃ、じゃあ……」の次の言葉は比企谷への告白の言葉だったろう。でも、それは比企谷の言葉で断ち切られる。比企谷は雪ノ下との関係性の解消に納得がいっていない。だから由比ヶ浜はそれを受けて"お願い"を口にする。それは三人の関係性を取り戻すことだ。また三人でこうして語り合いたい。比企谷も分かっているのだ。由比ヶ浜が告白してこようとしていることを。そしてそれを自分が断ることを。

比企谷の言う「お前はもう、待たなくていい」という言葉は、6巻の文化祭であった由比ヶ浜の「待ってても仕方ない人には、こっちから行くの」という言葉を意識したものだが(しかしそれはどちらかといえば構成上の演出からくるものだとも思うが)、"待つ"の意味は全然違う。終盤で陽乃が由比ヶ浜に「あなたが先に大人になるしかなかったのよね」と言う場面がある。比企谷も雪ノ下も由比ヶ浜の優しさに寄りかかっている。文脈としてはそれを受けた方がいいだろう。比企谷は自分や雪ノ下みたいな面倒くさいこじれた人間を待つ必要はないと、由比ヶ浜に告げる。それはとても残酷な言い草ではある。こいつクソだな。

でも「待ってても仕方ない人には、こっちから行くの」という台詞を意識したっていい。だってその台詞はきっと比企谷も由比ヶ浜も覚えているはずだから。つまり、ここで由比ヶ浜は自己中心的に比企谷に踏み込んでもいい。比企谷に好きだと告白してもいい。「お前はもう、待たなくていい」というのは、たしかに比企谷の完全な敗北宣言と受け取ってもいい。もしかしたら、由比ヶ浜がここで告白したら比企谷はうなずいたかもしれない。その確率はわずかだと思うが、そのように由比ヶ浜が行動することだってできたはずだ。もうメチャクチャ泣きまくって言い寄ることだってできたはずだ。でも、そんなことは起きない。起きるわけがない。そんなことを由比ヶ浜はしない。それは作者も読者も比企谷もよく分かっている。だから、これはほとんど確定的事実だ。比企谷はそれまでの会話で雪ノ下とずっと関係を持ちたいということを宣言する。その上で自身全てを由比ヶ浜に投げ出している。それは誠意であるが、ほとんど脅迫にも見える。いや、実際読んでいる時は俺はそんなことは思わないのだが。俺はもっと優しい気分で、ただ泣いているだけだ。彼らの理解の輪の中にいて、一緒に泣いている。

あのシーンの静かで、そしていくらか平板な感じは好きだ。もうそれまでの展開で、由比ヶ浜の悲しみが何度も反復されて、由比ヶ浜が言うように涙も(読者の涙も)枯れてきているのかもしれない。由比ヶ浜は何度も自問し、そしておそらくディスティニーランドのライドで撮られた比企谷と雪ノ下のツーショットを雪ノ下が大事に取っているのを見て、最終的に自分がそこには(恋人として)入り込めないと悟っているように思う。友人関係はまた別として。だから、由比ヶ浜はプロム企画からプロム実施あたりまでの猶予期間の中で、比企谷と恋人のような時間を過ごすのだろう。お菓子作りをしたり、ネットカフェに行ったり、公園で何でもない会話をしたり、そしてプロムで一緒に踊ったり、あるいはその猶予期間以前から、きっと由比ヶ浜はそうしたことを意識して行動していたのだろうと思う。恋人関係ではない、曖昧なデートを、いずれ終わりが来ると分かっていながら、比企谷と由比ヶ浜は何度も重ねる。それは本当に素晴らしい時間だ。素晴らしい……また、泣けてきた。

とにかく「待たなくていい」という比企谷の台詞に、由比ヶ浜は笑って「なにそれ、待たないよ」と返す。でも、その言葉は嘘だ。彼女は待つのだ。全部嘘なんだよ。終盤で由比ヶ浜の語る言葉は全て嘘だ。そうなんだ。助けてくれ。でも、同時にそれは嘘じゃない。由比ヶ浜が言う「わたしは全部ほしい」というのは嘘ではない。それは本当のことだ。彼女の願い、つまり比企谷と恋人になりたい・雪ノ下と友達でいたい・三人でずっと一緒にいたいという気持ちは全部本当なのだ。全部嘘で、全部本当だ。その感覚は、由比ヶ浜と読者は共有できるはずだ。俺は原作初読時は由比ヶ浜は自分が比企谷と恋人になりたいという本音を隠して、ずっと他の二人に優しい嘘をついていると思っていたが、アニメを見た時に由比ヶ浜の悩みはそんなものではないと気づいた。決して由比ヶ浜は遠慮しているわけでも、優しい嘘をついているわけでもないと思う。ただ、現実として全ての願いを叶えることはできないだけだ。だから由比ヶ浜はグチャグチャになってしまうのだろう。ここに本物だとか、偽物だとかいうことは霧散して消えていくように思う。

言葉はどんどん無意味になっていく。というか、何を考えているか、もうみんな、読者も含めてみんな分かっているから、何を言おうと関係ないのだ。そこには完全に理解された不完全な世界があるだけだ。

(厳密にいえば由比ヶ浜の「なにそれ、待たないよ」という台詞も嘘ではない。ラストで由比ヶ浜が再び部室にやってくることや、14.5巻の比企谷と同じ予備校に行くことを決めているところなんかは、そういう可能性も秘めているわけで。特に後者のシーンはけっこう怜悧な鋭いものを感じる。多分、あの関係性はそうしたせめぎ合いの中で保たれていくものなんだろう。個人的に言えば、最終巻で由比ヶ浜がきちんと告白の言葉を比企谷に伝えて、そして比企谷がきちんと振るシーンなんかがあっても良かったのだが、どうなんだろうか。その点についてはかなり比企谷がヘタレにも見えてしまう。)

「俺ガイル」の後半は、基本的に読者は由比ヶ浜の視点に立つことになる気がする。比企谷と雪ノ下のひねくれようは、もはや本当によく分からない境地に至っていくように思う。(アニメを見ると多少は整理されて理解できるようにはなるが)。論理ではある程度分かるが、感情としてはよく分からない。比企谷と雪ノ下はほとんど求道者みたいなもので、常人とはちょっと共有しにくい部分が出てきているように思う。アマゾンレビューで「禅問答」と揶揄している人がいたが、まさにそんな感じだ。

そもそも、個人的なことを言えば雪ノ下というヒロインは全然魅力的ではないように思う。もちろん序盤は毒舌なクーデレキャラとして想定されていたのだろうが、8巻あたりから本当にこいつは何なんだというキャラに変貌してしまう。誰も彼女をうまく理解できていない、と思う(作者は理解しているのだろうが、それは読者には伝わってないように思う)。だから、雪ノ下に焦がれる比企谷の内面も謎な部分が多い。

どうして、比企谷は雪ノ下のことが好きなのか。それは序盤では、比企谷が自分と同じものを感じるからだ。ぼっちで、自分のことは全て一人でやり、他者を必要としない。必要としないばかりか寄せ付けようとせず、毅然とした態度で臨む。孤独の完璧超人。自分の弱さを自覚し、卑屈にさえなっている比企谷にとって、その姿は眩しく映ったのだろう。彼女のようになりたいと思ったのだろう。彼が独白で述べるようにそれは憧れだったわけだ。

そして、もう一つ重要な要素に雪ノ下が真実から始める女であることが挙げられる。彼女は決して嘘をつかない。それは彼女の一つの信条のようで、というか嘘をつく必要がない。なぜなら彼女は他者におもねることがないからだ。彼女は他人に気に入られるとか、そういうことはどうでもいいから嘘をつく必要がない。だから会話でも会議でもひたすら空気を読まず、意見を口にする。

比企谷はそういう彼女を信頼する。これは極めて大きなことだ。彼は小中学校の経験を通して他人、特に女性に対して人間不信になっている。彼には全ての会話が嘘に見える。裏があるように見える。そうした中で、彼は雪ノ下に出会う。真実しか積み上げない女に出会う。彼はここから始めるしかなかったわけだ。それは由比ヶ浜ではダメだ。由比ヶ浜は優しいが、空気を読むし、嘘をつく。だから真意が読めない。そのことは比企谷を元いた場所へ戻してしまう。(折本かおりのエピソードもそうした文脈で理解できると思う。彼女は全員に対して同じようなフラットな態度を取る(ように見える)から、比企谷は彼女に何かを見出したんだろう。もちろんそれは儚い思い込みだったわけで、当時の彼女にとって比企谷はどうでもいい存在に過ぎなかったわけだが)

しかしそうした真実をめぐる話は前半のものであって、後半にいたるにつれて、三人の関係性はそうしたものから変質していくように思う。比企谷の、由比ヶ浜ってもしかして本当に自分のことを好きなのかなあという感覚はどこかで確信に変わっているように思うし、だけれどそれを口にしないのは、やはり彼は雪ノ下により惹かれているからだろう。由比ヶ浜もそのことを明確に意識していくようになる。雪ノ下も6巻終わり辺りから比企谷に何らかの思いがあることを自覚しているかどうかはともかく、明確に行動に出し始める。もしかして(彼・彼女)は(彼・彼女)のことが好きなのかなあという疑義は、滑らかにお互いの確信へと変わっていく。だから外面的にはずっと硬直状態のままだ。

だから、6巻あたりから発生した三人の関係性のうねりが9巻の「本物がほしい」という言葉とシーンに結実していくところは本当に良い。三人は同時に泣くのだ。

遠目に見ると、このシーンは何か、こう、極めて異常なシーンにも思える。こういう表現はあれだが、つまりブラック企業が新人研修合宿で互いに自己開示をさせまくって三日目には互いにボロボロ泣いているみたいなものだ。あるいは、ロシアの外交官がサウナと雪原でのレスリングで他国の外交官をもてなすみたいな話だ(どちらもツイッターで見た話なので真偽のほどは定かではない)。「本物が欲しい」それはたしかに見ようによっては自己開示啓発セミナーだ。

何が言いたいかというと、言葉に身体的な経験が加わると、それが何よりの真実だと思ってしまう機能が人間にはある。ミシェル・ウエルベックも「言葉は人間を分断するだけだ。温かいセックスと組み合わさった時にだけ、言葉は愛を紡ぐことができる」みたいなことを言っている。でも、それは本当だろうか? セックスと言葉が愛を信じさせてくれるだろうか。涙と言葉が本物を感じさせてくれるだろうか。個人的なことを言えば、未だにそれは言葉上の定義のように思える。多分、真にその境地に達したことはないし、これからの人生でそこに達するかどうかは不明だ。しかし、そうしたことがあるのは分かる。みなさんも中学や高校の部活で大会に出て負けたりした時に、みんなで泣いたりしたことがあるだろう? 俺はない。しかし、大学時代に付き合った彼女が泣いていた時に自分の中に想起した感情は、たしかに何らかの何かだったような気はする。あるいは10代前半くらいに母親に叱られて叩かれて、その後、間髪入れず抱きしめられた時には、たしかに何かがあった気はする。おそらくそこには真実があるのだ。少なくとも真実のような何か。それだけで多分、十分なんだろう。俺たちは生きていける。

まあ、ともかく9巻の「本物がほしい」というシーンで、俺はずっと泣いている。遠目から冷笑オタクとして立ち会うことは無理だ。由比ヶ浜は都合良く泣く女だ。ここぞというタイミングで快い音を鳴らす楽器みたいな女だ。雪ノ下は言う「どうして由比ヶ浜さんが泣くの。そういうのずるいわ」。俺もそう思う。でも、そのシーンを読む俺もその時には泣いているのだ。何なら平塚先生が比企谷に「これからの人生で誰かが雪ノ下に踏み込むだろう。でも、私はお前と由比ヶ浜が踏み込んでくれたらいいと思う。比企谷、今なんだよ」と説教をしていたシーン辺りからずっと泣いている。由比ヶ浜が都合良く泣く女なら、俺はもっと都合良く泣く男だ。助けてくれ。彼らから距離を取ることは難しい。読者もまた、分からないなりに三人と同じ時間を積み上げてしまったのだ。だから俺たちはどうしてもそこに居合わせてしまう。三つの水風船を互いにぶつけて破裂させないと、彼らは信じ合うことができない。本物を得ることができない。それはやはり身体性というか、言葉だけではないものが欲しいからだろう。

9巻を俺は日曜日の昼間のマクドナルドで読んでいたが、もうグズグズで、涙と鼻水が出てハンカチで拭いながら読んでいた。あとエモいEDMな東方アレンジを聴きながら読んで、感情にバフをかけていた。32歳の無職が川崎市マクドナルドで東方アレンジを聴きながら俺ガイルを読んでボロボロ泣いているところを想像してほしい。たしかに俺はそういう自分に酔っている節もある。それは否定しない。でも本題はそういうことではない。底にいかないと、全力でぶつからないと手に出来ないものというのはある。泥というか、土臭いところから俺たちは始めるべきだ。現実の世界なんてどうでもいいのだから)

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キャラクターへの読者によるシミュレーションが高度になるにつれ、彼らの作品内での一挙手一投足に感動するようになる。少なくとも俺はそうで、これは自分にとっては特異な経験だった。8~12巻あたりはその浸かり方が深くなって一行一行を読むスピードが恐ろしくゆっくりになってしまった。一行読むたびに何かを想起してしまう。彼らのあり得た可能性とかあり得た過去とか、そういうものだ。そうしたことが無限に頭の中で発見されていく。

(いや、10巻の進路云々の話とか11巻のバレンタインデーの話とか、普通に読めばけっこう退屈であると思うし、実際退屈である。だがまあ、6巻を読んだ時点でこの物語を最後まで見届けないという選択肢は個人的には消えているので)

5巻の花火大会の帰りのシーンで由比ヶ浜が比企谷に告白していたら、その言葉を口にしていたらどうなっていただろうか。あの時は比企谷も雪ノ下(が嘘をつくということ)に幻滅していた(同時に期待した自分にも幻滅していた)。比企谷と由比ヶ浜が恋人関係になれた瞬間は多分ここだろう。おそらく由比ヶ浜はある程度本気でここで告白するつもりだったのだろう。だが、それは携帯がブーブー鳴ることで中断される。

「俺ガイル」の世界に浸っていると、以上のような内容が本当にひたすら脳内を駆け巡っていく、あり得た可能性、あり得た過去、一つ一つの台詞、そこに込められた真意。脳がね、もうダメになるよ、これは。

(11巻のバレンタインデーのイベントの後、雪ノ下は由比ヶ浜にチョコを渡すが、比企谷には渡せないでいる。由比ヶ浜が「ヒッキーの分は?」と追い打ちをかける。雪ノ下はその場は皿に盛られたチョコで誤魔化してしまう。下校する時に雪ノ下は意を決して鞄の中からチョコを比企谷に渡そうとするが、渡せない。それを由比ヶ浜も比企谷も察してしまう。雪ノ下はここで明確に怯えている。あんなに他者におもねることのなかった雪ノ下が怯えている。関係性を壊してしまうかもしれないことに怯える。それがまた、彼女の比企谷への本気度合いを感じて、比企谷も由比ヶ浜も動けなくなってしまう。これには本当に参ってしまった。チョコを渡さないことが彼女の気持ちを本当に表現してしまっている。その次の日に水族館デートで由比ヶ浜が比企谷にチョコを渡して三人で会話するシーンも本当に壮絶である。何も決定的なことを言わないのに、全てを理解してしまう。)

知り合いと話した時に「フィクションというのは一つの檻で、学校という場所も一つの檻だ」という話が出た。キャラクターたちはそこから出ることができない。閉鎖空間。人間関係が嫌だからといってそこから逃げることは難しい。嫌いであれ、好きであれ、関係性は続く。もちろん、作品内でフェードアウトしていくことはある。俺ガイルの相模南とかはそうだ。

キスカムというものがある。アメリカのスポーツ中継の休憩時間なんかに客席を映し、映されたカップルは周りの観客に囃し立てながらキスをするというもの。キスをしないとブーイングを浴びたりする。恋愛系リアリティショー的なものだ。『あいのり』でも『テラスハウス』でも何でもいいが。まあ、こういうものに関する賛否両論はあるにせよ、恋愛モノのフィクションの形式はこういったものだろう。

思い起こしてみれば、中学や高校の頃のバレンタインデーはたしかに独特の浮足だった雰囲気が校内にあった。多くの男子がもしかして……と思う日だ。この魔力から完全に逃れられている男子は、俺はほとんどいないと思う。まあ、クラスでも1人2人はそういう奴がいる。授業中も休憩中もずっと無視してノートPCでプログラミングをやってるような奴だ。そういう奴はマジで「え?今日バレンタインデーだったんだ」みたいなことを言う。多分、それは本音だろう。彼は大学卒業か中退した後にベンチャーのCTOになったが。まあ、でも俺はそうじゃない。バレンタインデーの日の朝はちょっと鏡の前でいつもより身だしなみをきちんとする。何もないことは分かっているし、論理的にその日の身だしなみを整えたところで何にもならないことを知っているのに。ともかく、そうした時間は俺たちを恋愛脳的な魔力の穴に落とし込む。イケメンだろうが非モテだろうが、心底迷惑に思っていようが、そんなの関係なく、無差別に巻き込んでいく。"「恋セヨ」と責める この街の基本構造は"というやつだ。

俺たちは比企谷や雪ノ下や由比ヶ浜キスカムで見る。最初は。ワイワイしながらキスカムを見る。長時間見ているうちに、彼らは人間として立ち現れてくる。距離が取れなくなる。もどかしい気持ちになる。もうその頃には単純にキスしろとか恋人になれよとは囃し立てない。でも「お兄ちゃん」だとか過保護だとか共依存だとか通過儀礼だとか、そんなものどうだっていいから、支え合えばいいだろ、と思うようになる(まあ最終的な結論はそんな感じではあるが、9巻~12巻あたりはマジでそんな感じだ)。なんか説教したくなる。そもそも高校生のしかも同級生の間に、そんな過保護だとかそんな関係性を見出さないだろ。お前らは子どもだろ。俺だってそうだったし。だがまあ、高校生に向かってお前らは子どもだ、なんて言ったところで、それは何の意味もない。

彼らはとにかく「今」にこだわる。俺たちは「今」なんてのはただひたすら摩耗し、忘れて消え去っていくものだと知っている。それは30年生きた人間の考えだが、作者の分身である比企谷もそういうことはある程度理解している。他人にむかついても一旦しまいこんで、数日過ごせば案外けろっと忘れてしまう。そういうことを知っている。あるいは、もっと言うなら成果主義に毒されてもいる。結果をとるために、感情を犠牲にする。仕事なんかで結果をとるためだけなら深い関係性は不要なんだろうと思う。だが、やはり彼らは「今」にこだわっている。それはたしかに、俺が忘れてしまったもの、求めるのをやめてしまったものなのだろうとも思う。ただ「今」を掘り続けるしかない。そういう迫力が現前する瞬間というのはある。多分、こういうありきたりな話は無意味だと思う。だが、俺があまり書かない話なので書いておく。ここはクソ壺なので。

平塚先生が言うように雪ノ下は自分に通過儀礼、イニシエーションを課している。一人できちんと何かをやり切る、そうやって姉や母に認めてもらう。それはほとんど脅迫観念みたいなものだ。これを共感するのは今の自分には難しい。というのは、自分がすでに30過ぎた人間だからだろう。大人は別に全然ちゃんとしてないし、人生に何か区切りらしい区切りは存在しない。何かを区切りとみなすことはできるが。これは本当に安直な言葉だが、いつの間にか大人にカテゴライズされているだけだ。でも、たしかに自分が高校生の頃はそういう思いがあったかもしれない。俺は20歳くらいの頃に第一次産業第二次産業に従事するオッサンにシバかれたいみたいな欲望があって、例えば都留泰作の『ナチュン』や『ムシヌユン』を読んだ時に、俺と同じこと考えている奴がいる!とちょっと興奮したものだ。とにかく漁師とか土建屋のオッサンにしごかれたら何か人生が一つ変わるんじゃないか、と思っていたのだ。アホっぽい話である。それは俺が高校生の頃にバイトをしていなかったし、大学生になってからも塾講師とかしかやってなかったからだろう。それに(個人的な主観として、あるいは一面として)鬱屈とした大学生活だった所為もある。まあ、インド行けば人生変わるみたいな話と同じだ。(個人的な話で言えば、最初に就職した製造業で現場研修を一年間やった際に、この願望はある程度満たされた気がする。それは満たされたというより幻滅というか現実ではあったが。今となってはその願望自体が擦れて消えてしまったように思う。)

そういうレベルで考えるなら、雪ノ下が自分に通過儀礼を課していることも少しは理解できる。彼女も高校生的な「今」にとらわれているわけだ。

問題は、雪ノ下には動機が存在しないことだ。雪ノ下だけじゃない。比企谷にも由比ヶ浜にも基本的に動機がない。彼らは奉仕部で仕事の依頼を受け、それをこなすことで何らかの達成にいきつく。まあ、比企谷と由比ヶ浜はどうでもいい。二人は別に達成を目指しているわけじゃない。しかし雪ノ下は違う。彼女は何らかの達成を目指しているが、その何らかの部分の動機が存在しない。こういう人は俺には本当によく分からないのだが、たしかに知り合いにこういうタイプはいるので存在の否定はできない。だから雪ノ下はちょっとロボットみたいな感じになる。比企谷もそんな感じだ。上手く自分の欲望を表に出せないというか。だから二人には理由付けが必要になってくる。最終巻あたりまでこないと、お互いに向ける素朴で複雑な感情を口に出すことができない。雪ノ下は終盤まで本当によく分からないキャラで、理解がしがたい。Interludeで語られる彼女の内面もちょっと独特な文章で、そしてかなり部分的なものでしかないので、読者と共有できるものが少ない。なんなんだよ、この女。最終的に発見される彼女の素の姿らしきものは、未熟で純粋な少女のそれであるように思うが、それもまた彼女の一面でしかない。よく分からない。バレンタインデーの経緯とかを見るに、それは真に彼女が世界を恐れ始めた(大事にしたいものだと思い始めた)、ということなのかもしれない。
(14巻で比企谷の腕を引き寄せて写真を撮り、ぼしょぼしょと「こんな、感じ……」と言う雪ノ下の威力はヤバすぎる。やめろ。「あなたのことが好きよ、比企谷くん」と言った後に顔を隠してパタパタと去っていくのやめろ。お前は小学生か。ウオーやめろ。)

反面、一色いろはには動機がある。そう、一色いろはだ。我らが無敵のヒロイン、一色いろはである。「俺ガイル」後半の主人公が由比ヶ浜だとすれば、サブの主人公は一色いろはだろう。彼女は言い出しっぺだ。彼女は自己中心的で、それを隠そうともしない。ここにて完全な図式が完成する。比企谷、雪ノ下、由比ヶ浜、そして一色。一色が欲望し、雪ノ下が企画し、由比ヶ浜がチームをマネジメントし、比企谷は雑用及び何かジョーカーめいた切り札的な立ち位置、つまり頭を下げて頼み込んで回るオッサンだ。一色は何度失敗しても立ち上がってくる。何ならその失敗さえ布石にしようとする。純朴な雪ノ下や由比ヶ浜と違って、清濁併せ呑む。こいつ主人公だろ。個人的に一色いろはは相模南の善なる生まれ変わりみたいな存在だと思っていて、作者が救えなかった相模南を一色いろはを出すことで代替してるみたいな感覚もある。まあ、そんなことはいい。

一色いろはは「俺ガイル」後半の軽さを担保する。後半は比企谷、雪ノ下、由比ヶ浜の関係性により話が重くなっていく、軽快な面白さは消えていく。そこに投入された女。一色いろは。彼女は読者の目線にもなる。難解というかほとんど意味不明になっていく比企谷と雪ノ下に対して、無関係の人間は一歩引いたところに立って眺め、そして三人の関係性に踏み込んでいく。比企谷、雪ノ下、由比ヶ浜の三人だけでは膠着状態に陥り、停滞してしまう関係性とストーリーを突き動かすブースターになる。一色いろはは奉仕部と責任の関係性で繋がってしまう。城廻めぐりが生徒会選挙の後に比企谷に話す、雪ノ下が生徒会長になる三人の生徒会室の世界線の話はたしかにあの時点ではそれが理想に思えるが、だがいずれ膠着状態に陥っただろう。

キャラクターが脳内で立ち上がっていく過程で、その人間像はかなり精緻なものになっていく。奉仕部の三人がどういう行動を取るかは、後半では精緻なゆえにほぼ決定されてしまう。ただし、そこに自由に動かせる駒が出現するわけだ。まだキャラクターの固まっていない女、一色いろは。彼女は自由に動いて、話を(よりワクワクする方向へ、より混迷する方向へ、より良い方向へ)かき乱す。痛快だ。要するにトリックスターなわけで。村上春樹極左運動を描写した台詞を借りるなら「行動がキャラクターを決定する 逆は不可」(「行動が思想を決定する 逆は不可」)である。(もちろん、これは言葉の綾で逆もあり得るだろう。少なくともキャラクターについては)

トリックスターは二面性をもつのが特徴だとウィキペディアなんかでは書かれているが、一色いろはも(ある種の許容範囲内の)裏表のある(と同時にない)キャラとして描かれる。何が良いって休日の過ごし方が「適当な男と遊ぶ」という設定だったりするのが本当に良い。(俺みたいな)オタクなんて歯牙にもかけなさそうなところが良い。これは好みの話だ。純朴ではない何か。裏と表を比企谷に見せながら、しかしそこに挟まるようにして、きちんと本音を仕舞い込んでいる女。

彼女は主人公を中心としたハーレム物語の中にあって、休日は戸部と二人で遊ぶし、葉山に告白するし、主人公にも気がある。このバランスというかカウンター的なものがたまらない。それは許容範囲で、俺たちを根本まで叩きのめすことはない。表面をカリカリと引っ掻いてくれる。そういうことは言わない方がいいだろうが、でも多分そういうことだろう。でも、それを認識してさえ(まあ認識しない方がいいだろうが)、一色いろはは愛おしい。話全体が重くなっていく中で、一色いろはだけは手元で猫のように転がり続けてくれる。あの作品世界と独立した人間性を感じられる瞬間みたいなものはやっぱり良いのだ。個人的に「マニアックなハリウッド映画が好きな女なんて絶対彼氏の影響に決まってる」という一色の台詞はちょっと微妙だが、終盤で異常に詳細な麻雀の比喩を持ち出すあたりは悪くないと思う。(どちらもほとんどキャラクターの後ろから作者のすね毛が見えてると思うが)。ストーリーに巻かれないキャラクターの余剰性というものはあって、それを感じる時の温かさみたいなものはある。

ちょっと過剰で面白いのは終盤で「酒を飲める年齢になったら勢いで過ちを犯せばいいだろ」みたいな台詞を言うところだろうか。(現代的にはいろいろとアウトな台詞かもしれないが、まあこれは基本的に男の願望をメインに据えたお話なのでそういうことも許される。本題はそこではない)「俺ガイル」は基本的に性の話をしない。比企谷は時々パンツがどうとか言うし、最初は由比ヶ浜のことをビッチと呼ぶし、雪ノ下の胸のことを稀にネタにするが、だが基本的に性の話をしないといっていい。この世界にはセックスなんて存在しないんじゃないと思うくらいだ。もちろん1巻で由比ヶ浜が「この年齢で処女なんて恥ずかしい」と口にするが、それはもうほとんど客寄せ的な意味合いでしかないだろう。着替えを見てしまうシーンとかもそうだ。奉仕部の三人は7巻以降、禅問答の領域に入って(ほとんど去勢された状態で)互いの関係性を純粋に練り上げていってしまう。

そういう作品世界で、一色は先ほどのような台詞を吐く。前提をぶち壊しにくる。そういうところもまた面白い。ちょっと引くけど。というか由比ヶ浜は一色の言葉に引いてしまっている。そういうやりとりの塩梅だ。でもまあ、一色いろははそういう女で、他のキャラや読者と信頼関係があるから、そういうことを言っても全然OKなのだ。逆に言えば、この作品世界が性が前面に出た話だったらこの言葉は冗談として受け取ることは難しくなったかもしれない。ちょっと重みをもってしまう。性のない、無限に優しい世界だからこそ、邪悪な冗談を吐けるということはある。この邪悪さが話のスパイスになっていることは間違いない。以上のような理由で、俺は一色いろはが好きだ。

(終盤で結ばれる、一色いろはと小町の関係性もまた良い。小町が見せる側面が何か雪ノ下や由比ヶ浜と微妙に異なるのである。小町はここでちょっと性格が悪い感じだ。それは一色いろはのあざとさ・クズっぽいところ・自己中心性に対抗するものなのだろうけど。そして小町から何か八幡に共通する、どこかずうずうしい部分というか、一筋縄ではいかない面倒臭さみたいなのがフワッと伝わってくる。ああ、やっぱりこいつら兄妹だったんだ、みたいな。そして一色の小町に対する態度も、読者が見たことのない面を少し見せている。それは先輩としての立ち位置でもあると思うが。とにかくここにおける二人の会話はたまらなく愛おしい。何でか俺もよく分からない。この二人の会話はずっと見ていたい。百合とかではないと思うが、よく分からない感情だ。二匹の猫がじゃれ合っているのか? とにかく居心地が良い。この良さは最終巻や14.5巻のアマゾンレビューでも書かれていることなので、一般性があることなのだろう。)

(この文章を書いた時から少し間を空けて一色いろはについて再考していたが、結局彼女の中心的魅力はド直球の根性努力型パワータイプかつ自己中心的であることなんだろうと思う。外形的にはあざとさや知性や比企谷の好意で包んではいるが。とにかく一色が出ると世界が明るくなる。それまでのメインキャラはひねくれチートキャラと孤高の天才キャラと空気を読む優しいキャラしかいないので、動機のある努力根性タイプがいない。それでいて彼女は天然とか無骨ではなく、かなり知性がある。登場時は生徒会長とかなりたくないんですけどね~ヘラヘラみたいな感じで最悪なのも良い。そして段々努力根性タイプであることが分かってきて、かつ主人公に好意をもつようになる。そういう設計になっている。これで好きにならない奴おるか? 俺だけが本当の一色いろはを知っている)

終盤、最初のプロムの企画に際して雪ノ下と一色は「ラインやってない人間はそもそもプロムに来ないだろ」と陰キャやコミュ障みたいな人間を切って捨てる。比企谷も同意する。このシーンはちょっと笑ってしまう。そしてダミープロムの立案で比企谷が当てにするのは、材木座と遊戯部である。この愛すべき日陰者たち。そう、物語は終盤に至ってオタクにボールが投げられるのである。俺たちの手番が回ってくるのだ。遊戯部の会話は最高に良い。「一色いろはってあのクソ女のことですか」「ナイトプール年パス持ちで、IT企業社長と付き合っているとかいう、クソビッチ」「クラスは同じなのに俺たちの存在を認知しようともしない」彼らは口々に一色いろはについて悪口を並べたてる。ここは本当に最高だ。なぜなら、彼らの言葉を全部理解できるからだ。そうだよな、一色いろはは本当にクソ女だ。わかるぅ~。俺も遊戯部の連中に混じって悪口大会に参加したい。でも、その上で、俺たちは一色いろはが最高の女であることを知っている。その裏の共通理解が、遊戯部と比企谷と俺をつないでいる。これは緩和されたミソジニーの入り混じった男のホモソーシャルだ。何てことはない、ガールズトークがあるように、ボーイズトークも存在する。男も寄り集まって女について論評したいわけだ。最低なことを言えば、俺はこの空間がたまらなく心地良い。つまりだ、アニメキャラの良さについてツイッターでグダグダと感想を書いて、それを他のフォロワーと共有することとほとんど変わらない。俺は作品内のキャラクターについての所見を作品内の別のキャラクターと共有する。忘れていた男たちだけの休み時間の居心地の良い空間が立ち上がる。そこまでがセットだ。評論空間は作品内で完結する。一色いろはは俺たちを団結させる。

遊戯部の部室で行われる企画会議も、けっこう感じ入ってしまう部分がある。ここでは由比ヶ浜がアウェイなのだ。由比ヶ浜は割と誰でもコミュニケーションを取れるが、この空間ではやはり比企谷がハブになって会話が図られている。比企谷がハブになっている!コミュニケーションの中継点になっている!お父さんは嬉しい!みたいな感情になってしまう。「やっはろーを共通の挨拶とする」みたいなギャグも飛ばす。本当によくやったよ、比企谷は。由比ヶ浜がかなり本気めに嫌な声で「やめて」と言う。そうなのだ、由比ヶ浜は決して誰に対しても優しいわけではない。聖母なんかじゃ全然ない。材木座のことは中二と呼ぶし。そういうことを思い出す。俺ガイルは基本的に比企谷目線でしか由比ヶ浜のことは分からない。だから途中から由比ヶ浜はただただ優しい(そしてずるい、力強い、大人な)女性だと認識してしまう。でも、そうじゃないのだ。彼女は話をちょっと合わせてくれるくらいの、時としてドライな、等身大の女の子で。

そして俺の回想が始まる。オルタナティブな関係性の話だ。もし比企谷が一年の時に材木座なんかに誘われて遊戯部に入って、そこで青春を過ごしていたらどうだっただろうか。彼は奉仕部には入部せず、だから雪ノ下とも巡り会わない。由比ヶ浜はどこかの段階で奉仕部の雪ノ下にお菓子作りの依頼をして、そして比企谷にクッキーを渡す。由比ヶ浜は奉仕部に行ったりしながら、時々、遊戯部にも顔を出すようになる。やがて由比ヶ浜は遊戯部のアイドル的存在になる。そしてある日、由比ヶ浜のいない部室で、ボードゲームに興じながら相模弟&秦野が比企谷に向かってこう言うのだ。「先輩、昨日の放課後、由比ヶ浜先輩から告白されたらしいですね……剣豪さんから聞きましたよ……どうするんですか? 泣かせたりしたら、強制的に退部してもらいますからね」ほら、また泣いてしまう。そういう可能性だってあったわけだ。そしてある意味ではダミープロム企画中はそういう可能性が演じられている。奉仕部は消失し、生徒会と遊戯部という陣営で、世界は二分されている。

(ダミープロムというのは、作品全体から見れば偽物が本物になる。あるいは偽物と本物の区別がつかなくなる。その比喩ではある。だが、それより大事なのはおそらく何度も試そうする比企谷の意地だろう。この過程を知り合いが「引けるまでガチャを引く」と形容していた。キャラクターのシミュレーションが高度になり過ぎてキャラクターの必然的行動から問題を決着に持ち込めない時、作者はどうするか? 決着に持ち込めるまで何度も試せばいいのである。それはつまり、終盤の比企谷の意地そのものである。そしてダミープロムの再始動は比企谷が雪ノ下を精神的に揺さぶって告白を成功させるに用意したものでもある。ここでは必要のない外形的な問題が必要とされる内面的な問題を解決するために使われる。これは序盤~中盤にあった奉仕部のやり方、つまり外形的な問題を解決するために三人の内面を犠牲にすることの逆のことが行われているようにも見える。三人は外の世界を巻き込んで、外の世界も犠牲にする。自分たちのために。それは本当に素晴らしいことだ。それはきっと正しい世界の在り方だろう)

遊戯部と材木座は、ダミープロムが再始動した時に一色いろはに生徒会室に呼び出される。この時のしどろもどろな感じも好きで。材木座一色いろはが目の前にいるにもかかわらず、彼女の口調を真似して「意味わかんない」と口にする。そして一色に舌打ちされる。そういうの、あるよな~。材木座のコミュニケーションの取り方は俺も身に覚えがある。本当にあれ、なんなんでしょうね。目の前に当該人物がいるのに、見知った内輪の会話を維持しようとするというか。ともかく材木座は奉仕部への最初の依頼の時も、比企谷に対してしか会話をしようとしない。雪ノ下や由比ヶ浜と面と向かって話そうとしない。必ず比企谷をハブにして話そうとする。体育祭のプレゼンでも上手く人前で話せなかったりする。(まあ、その後で大勢を前にして檄を飛ばしたりもするのだが)。

考えてみれば、これは初期の頃から扱われてきたトピックだ。葉山グループの男たちは最初は葉山なしには会話を成立させない。これは俺も現在進行形で身に覚えがある。あんまり親しくないDiscordサーバーの音声チャットで、中心人物抜きや共通トピック抜きで上手く会話できない(そもそもお前は会話そのものが苦手だろ、という話は置く)

(こうしたなんというか、卑屈なホモソーシャルな話を読んでいると、「稲中」や「幕張」を思い出す。というか、遊戯部の脱衣大富豪回は「幕張」の脱衣麻雀回が元ネタだろとちょっと思っている。千葉だし)

ホモソーシャル的な話をするとすれば、卒業式やサウナのやりとりなんかは、もっと優しい何かだろう。ブラザーフッド的というか。卒業式の葉山との会話は本当に好きで、頭を前に向けながら並列して会話するやつに俺は弱い。その後に比企谷が泣きまくって葉山がドン引きし、ティッシュのバケツリレーが始まるところなんか、独特のマジックリアリズムみたいなものを感じてしまった。

一色いろはや城廻めぐりみたいな存在に対しては学校の中で男子の隠れファン集団がいそうな気はする。気がするというか、俺の願望みたいなものだが。彼女たちの周囲でホモソーシャルが発生している。

城廻めぐりについてはいろいろと思うところがある。6巻のアマゾンレビューを読んでると、ある種の論壇が形成されていて(というか有名作品のアマゾンレビューってみなさんメチャクチャ論評バトルするところなんですね)、城廻めぐりはどうして文化祭会議で相模南と陽乃の暴走を止めなかったのか、こいつも共犯だろ、そのくせ比企谷のことは悪く言うし、しかも作品内では悪とされていないし、みたいな。まあ、その感覚は分かる。城廻めぐりはノリと愛嬌と純朴さで全て免罪されている感はある。もしかしたら彼女は俺ガイルのキャラクターの中で最も凡庸でリアルだとも言えるかもしれない。空気を読んで険悪になることを避ける、しかし盛り上げる時のタイミングは分かっていて盛り上げてくれる。彼女は生徒会選挙や卒業式のあとで、奉仕部の面々が生徒会に入ってくれたらいいなと口にし、そして自分も卒業後にたまに思い出話をするためにやって来たいなと言う。それはきっと本音で、でもけっこう自分勝手な願望でもある。7.5巻の柔道部の先輩エピソードはその最も悪しき形で、大学生のOBが現役部員にかなり悪影響を及ぼしている。そしてもちろんこれは陽乃の話でもある。陽乃が高校にやって来るのは雪ノ下がいるからだとは思うが、マジでこいつ何なんだみたいな印象がある。まあ、でも俺も『げんしけん』で卒業した斑目が部室にたびたびやって来る話はけっこう好きではある。モラトリアムは終わったのに、居心地の良かった場所から出ることができない。本当にげんなりする話だ。陽乃の場合は、単にそういうことではないのだが、現役生から見れば目上で場をコントロールできる存在は、ちょっと扱いにくいげんなりする人間だ。

葉山隼人。作品の中核に関わり、そして結局、よく分からない男。おそらく葉山は比企谷に関してずっと正しいことを言っている(おそらくそのことを比企谷も自覚している)。でも、葉山が言うことで、それは比企谷にとって絶対に拒否すべきものとなる。それと対照的なのは陽乃が比企谷にかける言葉だ。彼女の言葉はおそらく正しくない(少なくとも一面的でしかない)が、それでも比企谷は毎回、彼女の言葉を重く捉え、言い訳にしてしまう。そして比企谷は葉山の言葉も陽乃の言葉も、最終的には全て飲み下し退ける。(比企谷が素直に従うのは平塚先生の言葉だけだろう)

葉山の言うYとは結局誰だったのか。小説を最後まで読んだ時点では、まあ順当に雪ノ下雪乃のことだろうと思ったのだが、アニメ見ているとマラソン大会の話で決着していた三浦という線もなくはないんだろうなと改めて思う。少なくとも比企谷目線では葉山と三浦が積み上げてきた時間というのは分からない。それはきっと、過小に評価されるものではないんだろう。

葉山が比企谷を連れて折本かおり達を突き放すシーンは、何かいろいろと考えてしまう。本来こういうシーンは主人公が今カノと一緒に元カノと対面してスカッとするみたいな構造なのだろうが、ここで今カノという存在は葉山に置き換わってしまう。それ自体は良い。男の連帯だ。それはけっこう好きだ。まあでもやっぱり、あまり気持ちの良いシーンではない。スカッとする部分が。(アニメだと葉山たちがサンマルクカフェの俺の好きな椅子に座っているので興奮できる。サンマルクカフェは同価格レベルのカフェチェーンの中では店舗によらず椅子のパターンがいくつかに統一されていて、かつ座り心地が良い)

そもそも比企谷が葉山と心を通じ合わせているという話自体が独特の気持ち悪さをはらんでいると思う。そんなのでいいのか、葉山。もちろん、語り手である比企谷を通して俺たちは何かプライドみたいなものをくすぐられるのだが。うーん。でも、やっぱり比企谷が葉山と話す時って、他のキャラクターにはない独特の緊張感が生まれて良いんですよね。葉山との会話シーンがくるとオッという感情になる。それは事実だ。

そろそろ書くべき話はなくなってきた。

キャラクターはデータベースから出てくる。どういう性格で、どういう髪色で、どういう体型で。彼らを空間に放り込んで、とにかく会話をさせ、行動をさせ、そうこうしているうちに、キャラクターはただのキャラクターではいられなくなってくる。一つの存在として立ち上がってきて、そしてその存在自体が作品そのものの主題になっていく。俺ガイルはわりとそういう流れがあったと思う。6巻あたりが主題が移り変わる分岐点だっただろう。もしかしたらキャラクター文芸というのは全般的にそういうものなのかもしれない。俺は今までそういう体験を積んでこなかったので類例が分からない。6巻で比企谷は完全に人間として俺の前に出てきてしまったし、由比ヶ浜は後半で一緒に泣いている人間だ。雪ノ下はよく分からん。こいつは迷宮だ。一色いろはが途中から投下され、解像度が粗い状態からまた立ち上げていく作業がある。キャラクターの登場に時間差をつけるのは、一つの手法なんだろうなと思う。最初に出てきたキャラで全てを回すと途中で煮詰まるというか、おそらくそこが最初の地点から見た時の終点なんだろうと思う。だから奉仕部の三人の終点は本来9巻だったのかもしれない。「本物がほしい」と言った瞬間が、三人の終点だ。しかし物語は続くし、そこに一色いろはが参入する。

データベースは性格や体型や髪色だと言ったが、ここには各キャラの過去も含まれるだろう。過去エピソードが匂わせられたまま解決しない場合、キャラクターはデータベースから自由にならないような気もする。

俺ガイルは一貫して過去話をほじくり返そうとしない。それは人間を安易な理解に落とし込まないという比企谷の信条であり、この作品のテーマでもあると思う。雪ノ下と陽乃と葉山の間に過去に起こったことは、なんとなく察しはつくものの、最後まで具体的な全貌ははっきりしないままだ。でも、そんなことを振り返っても仕方ないというのが比企谷の考えだ。比企谷も途中から過去の自虐エピソードはあまり語らなくなるし(それは彼が関係性に巻かれていくうちに丸くなり、自虐エピ自体が雪ノ下と由比ヶ浜を傷つけることだと気づいたからだと思うが。比企谷が由比ヶ浜をビッチと呼ぶのは序盤だけなのと同じだ。雪ノ下が途中からあまり毒舌を吐かなくなるのも似たような現象だろう)、折本との決着もほとんどそれ以前に解決してしまっているように見える。

もちろん、創作物一般で過去エピソードをやらない方がいいというわけではない。『鬼滅の刃』なんかは本当に毎回時代劇の定型みたいに敵役の過去エピをやって許す展開がある。それはほとんど異常なこだわりの領域に達していると思う(岩の柱のオッサンの過去エピとか漫画の枠を超えて巻末の部分に文章で書かれていたし)。とにかく、問題は何を信条とするかだろう。その型なり信条なりを決めたら、ひたすらアクセルを踏みまくること。そういうことなんだろうと思う。

多分、それはキャラクターも同じで、書いているうちにキャラクターに何らかの特性が出て、それがストーリーをひどく歪めそうになっても、あまりブレーキをかけない方がいいんだろう。そのキャラの尖った部分を引き受けるのは作者ではなく、きっと他のキャラクターであるはずだから。だからとにかくアクセルを踏め。

書くことがなくなってきた。

そういえば、下記のブログの俺ガイル記事(10記事ほどある)が良かったので貼っておく。ここまで的確に分析して文章にしてくれるのは嬉しい。

hclivings.com

 

以上。一旦ここで筆を置く。