人間が折り重なって爆発した

人間が折り重なって爆発することはよく知られています。

エヴァンゲリオンについて思うこと

『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』を見た。

感想というか、読解としては下記のブログが基本的に正解を言っていると思うので、私が言えることは少ない。

saize-lw.hatenablog.com

私はここ一ヶ月でエヴァシリーズ全体を初めて履修したので、特に25年とかそういう感慨はなく、ただの続きもの・リメイクとして新劇場版を見た気がする。

だからみなさんのように長年の思い入れはないし、10代前半でエヴァに直撃したわけでもない。私は30過ぎてエヴァを初めて見た男である。実は貞本義行の漫画版はまだ読んでいない。だから、一部解釈が違っていたりする部分もあるかと思う。

ただまあ、率直に言うなら、シン・エヴァというか新劇場版のシリーズを見た当初の感想は「なんだこれ、全然おもんないやんけ」である。というか、今でも思っている。

私は25年の歳月をかけていないので、エヴァを終えられてよかったね、とか庵野監督の私小説的な文脈があって、みたいなことを言われてもあんまり納得はできない。

上記のブログにあるようにシン・エヴァというか新劇場版は「思春期的な葛藤に対して面を向き合うというより、時間が経ってそんなことはどうでもよくなる、という解決法」をとる。それは正しい指摘だと思うし、25年間育った巨大コンテンツの幕引きとしてはそれしかないようにも思う。しかし、

そう、それはドラマの破棄である。

新劇場版は救済が確約された話であったように思う。それは破の頃からそういう雰囲気があった。ある種のループモノとしてトゥルーエンドにたどり着く新劇場版。そこにはカタルシスがあるだろうが、やはりきちんとした物語と論理のかみ合わせが必要なようにも思う。いや、別にエヴァはミステリではないだろというのはその通りで。

でも救済されることが約束されると、そこに血と肉は失われる。それは別に人が死なないということではなく、死んでもどうせ大丈夫なんでしょ、ということで。新劇の死はとても軽薄だと思う。どれだけキャラがひどい目に遭ったり、死ぬ覚悟を決めたりしても、全部ただのおままごとにしか見えない。私は多分、そこにハマれなかったんだと思う。そりゃフィクションなんだから全部おままごとだろ、と思ったそこのお前。俺とお前の違いはそこにある。

旧テレビシリーズの第16話を思い出してみろ。あの瞬間には、これからどうなるか分からない緊張感が、たしかにあった。予定調和・ご都合主義の定石から外れ、物語が暴走しだすような、面白さがそこにはある。

第16話「死に至る病、そして / Splitting of the Breast」はシンジがアスカや綾波とのチームワークを無視して独断で動き、そのために球体と膜のような形の使徒に捕らわれる。

第8話「アスカ、来日」以降、話は日常パート的な内容になる。ネルフというある種の疑似家族が上手く機能し、使徒は来るがチームで倒し、みんなが和気あいあいとした日常を送る。

それまでの話の流れからいえば、第16話もアスカや綾波がシンジを救い出し、シンジがチームワークってやっぱり大事だね、ちゃんちゃんとなる予定だった。しかし、そうはならない。第16話でシンジは自力で脱出し、使徒を一人で倒してしまう。精神的に未熟な人間が全てを一人でやり切ってしまう。そのグロテスクなアンバランスさ。*1

ここにてチームワークと疑似家族は崩壊していく。エヴァの暗い側面に突き進んでいく。トウジのエントリープラグを破壊するし、共食いするし、アスカは病んでいき、シンジと父の関係には決定的な亀裂が入る。

ここは本当に楽しい。次が見たくてたまらなくなる面白さがある。16話~20話辺りは本当に良い。そして旧劇も良かった。旧劇の単にハッピーエンドでもバッドエンドでもない感じとか、あるいはアスカが覚醒するバトルシーンとか。あれはやはり、エヴァに血肉が通っていたから楽しく、興奮するものだったんだと思う。旧劇の終わりには、クラブでノリながら酒に酔ってどうでもよくなっている時みたいな恍惚感がたしかにあった。 

新劇にはそういうのは一切ない。ただ、漫然とハッピーエンドに向かっていく。シン・エヴァのミサトとかゲンドウとか、本当にギャグである。そう、これはギャグなのだ。

 

新劇場版で特筆すべき、気に入らない点が、もう一つある。

それはヴンダーがひたすらダサいことである。これは本当にどうにかしてほしい。

*2

エヴァンゲリオンはメカ的な精緻さ、地方自治体的な精緻さに支えられていたように思う。旧シリーズの序盤で、それが特に顕著だと思う。第三新東京市の構造や避難指示のテロップや背景にいる重機だとか。それが実際にリアルかどうかはともかく、リアリティはあった。エヴァという人型ロボット*3もその中にあって、初めて血肉をもってくるように思う。挿入されるエントリープラグだとか、LCLに浸かるコックピットだとか、巨大な電源ケーブルだとか。

たしかにQでヴンダーが立ち上がる前まではそういう要素があった。巨大な船と繋がった大量のケーブル?や飛び立っていくヘリコプターの群れ。だが、ヴンダーがド派手な音楽と一緒に立ち上がって、翼が「ジャキン!」となった時、出てくる感想は「お前、それ本気で言ってる?」である。

たしかにヴンダーが"そういう"美学で作られている可能性はある。つまり、何かもっとパキパキとしたフィクション的ロボット美学である。

別の設定画を見る限り、こっちの方が個人的には全然かっこいい。こういう設定画が検討されていたなら、多分そういう美学ではなかったんだろうと思う。

ここで、我々の前には二つの選択肢が現れる。

一つはそれなりにかっこいいヴンダーを作る(もう少し肉的な要素を出すとか、電線が張り巡らされてるとか、シュッとしててもゴテゴテしててもいいが、とにかくダークな感じ。シン・エヴァ使徒にあったように、戦艦の下に無数の足や手を生やしても良い)

もう一つは、Qの通りのヴンダーをそのまま使うなら、ヴンダーは巨大人型ロボットに変形すべきだということである。

真面目に作れ、ギャグでやるなら本気でやれ。

ヴンダーの艦橋のミサトの様子を見る限り、ヴンダーはミサトの妄想的な産物であり、おままごとである。そういう面で言うなら、ヴンダーは多分あのデザインでもいいのだろうと思う。ということは、正解はヴンダーが人型ロボットに変形することである。

つまり、正解はこうだ。

一人残ったミサトが裏コードを解放しヴンダーが変形して巨大なジェットアローンになり、ネオンジェネシスの槍をシンジに向かって投げ、マイナス宇宙の境界面に親指を立てて沈んでいく。シンジは槍を受け取り、「残酷な天使のテーゼ」が流れる。

俺たちは笑い、興奮する。以上。

 

さて、シン・エヴァのラストシーンについてである。

全てのキャラは救われ、宇部新川駅に到達する。アスカはすでにケンケンにナデナデしてもらった後だ。駅のホームには綾波とカヲルが立っている。マリとシンジ、いや、自称胸の大きいいい女と神木隆之介が階段を駆け上がり、駅から走って出ていく。

「One Last Kiss」が流れ始める。

初めてのルーブルはなんてことはなかったわ 私だけのモナリザ

オッ オッ オッ オッ オオ~

かなりエモい。

これにて、エヴァンゲリオンというコンテンツは完全に磨滅する。擦り切れてしまう。シンジは物語を脱出し、シンジはシンジではない、何者でもない一人の男になる。それは他のキャラも同様である。

ここで描かれるのは、あまりにも軽薄(に見える)な、まるで没個性的な公共アニメCMのような映像である。新海誠の表層だけをすくい取ったような映像。ここまでくると、ちょっと感動してしまう。救いとは、物語からの脱出ポッドとは、つまり異性愛であったのだ。そして彼らは現実の中に匿名となって埋没してしまう。

これは皮肉で言ってもいるが、何か本質っぽいことが書かれているような気もする。それは多分、俺たちの現実がそうなんだろうと思う。別にそれは異性愛を同性愛や別の性的なあり方に置き換えたところで大きく変わるものではないだろう。ただ、現在の人生の前に過去の事象はどうでもよくなってしまう。父親だとか、エヴァだとか、責任だとか、そんな詰まらないことをいつまでも考えても仕方ない。それはたしかである。

これは他人が言っていた感想だが、シン・エヴァ、新劇のシリーズというのは、エヴァという物語からいち早く抜けた人間(観客含む)が勝ちになるゲームだったんだろう。「1抜け!」「2抜け!」みたいな遊びである。シンエヴァで最後まで物語を下りようとしなかったのはゲンドウや冬月やミサトである。リツコはヴンダー乗組員と共に脱出する。綾波、アスカ、カヲルは救われ、シンジは砂浜に残される。だがシンジはマリに助けてもらえる。俺はまだ砂浜に残されている。俺はどうすればいい? そういうゲームである。

多分、俺はリツコと一緒に脱出するべきだったんだろう。リツコ。この旧シリーズからの唯一の後継者ともいえる女。もちろん、新劇ではリツコの母親のエピソードは削られているし、綾波との仲も不穏な感じはしない。だが、Qのリツコのキャラデザを見た瞬間、これしかないと思った。リツコだけはミサトのおままごとに染まっていないのである。しかもそこには語られない文脈がきちんと存在する。短くした髪はゲンドウを断ち切ったと読める(実際シン・エヴァではゲンドウに躊躇なく発砲する)し、リツコが着ている上着もミサトの父親が着ていた南極の職員の服と同じように見える。*4 つまりリツコは旧シリーズの因縁を断ち切り、ミサトの父親的な役割を負わされている。しかもシン・エヴァの説明過多の中にあって、説明がされない。*5 これにはグッとくる。これはエサだ。食いつくしかない。そしてリツコに共感して上手く物語を脱出するしかない。他にも新劇場版で語るべきキャラは北上ミドリとかがいる。どちらにせよ同じだ。「エヴァっぽい」「こんなダサいスーツ着たくねえ」「なんかちがう」(巨大綾波を見ながら)みたいなことを言ってエヴァを脱出しよう。

他には、自分はケンケンだと思い込む方法もある。これはかなり一般的な脱出方法だ。俺はケンケンや、俺はケンケンや……と宣言することで、アスカが手に入る。そしてナデナデして一件落着である。

まあ、それでも無理そうなら俺と一緒に砂浜で、あり得るべきカッコいいヴンダーのデザインについて考え続けようや。

*1:もちろん、それは初号機や母親であるレイの力のおかげでもあるが

*2:読者の中でヴンダーがかっこいいと思っている人がいたら、それは申し訳ない。もしそう思ったのなら、すまないが、俺とお前の美学は違う

*3:汎用人型決戦兵器人造人間

*4:直接的すぎると言う向きもあるかもしれないが

*5:シン・エヴァ視聴中にトイレで一時退席したので、その間に説明されていたらすみません。もう一度見に行くつもりでいます