人間が折り重なって爆発した

人間が折り重なって爆発することはよく知られています。

幕末のニセ金は石に叩きつけると割れる

幕末では日本中から浪人が京都に集まり攘夷論をブチ上げながらグダグダとやっていたらしいのですが、彼らは飲んだり食ったり遊んだりした挙句文無しになる。すると自分の出身藩の京都駐在員に金の無心をする。駐在員は黙ってスッと一〇〇両くらい渡してくれたりする。(ケースバイケースだろうが)

そういう状態だったのでどの藩もお金には困ったらしい。その結果、どの藩も地域通貨や贋金をバンバン作る

「明治富豪史」(横山源之助)にはそういうことが書いてある。そして次のような内容が続く。

甲の藩も乙の藩も、皆な財政に苦しんだ。苦しんだ筈じゃ。苦しんだ挙句は、無暗矢鱈と貨幣を造えて、誤魔化したのじゃ。芸州でも、薩州でも、山口でも、福岡でも、どの藩でも、一分銀や、二分銀を造えない藩はなかったろう。福岡は銀台に鍍した二分銀を造り、秋田は一分銀を造り、土佐はまた肝玉が小さく、銅の中へ瀬戸物の粉を入れて、天保銭を出した。この天保銭は、石に撃きつけると、壊われたから可笑しかったわい

要するに安価に地域通貨を作ったり焼物の粉を銅で包んで贋金を作ったりしたとのこと。

土佐藩の出した焼物の粉を詰めた贋金は石に叩きつけると割れるので面白いとのこと。

俺も割りて~~。

ウィキペディアにも偽造天保銭についての項目がある。

天保通宝 - Wikipedia

天保通寳は寛永通寳5~6枚分の量目に過ぎず、吹き減りおよび工賃を差し引いても一枚10文前後のコストで製造可能である為、幕府は地方での発行を「禁制」として認めなかったが、幕末期に偽装工作としての地方貨幣発行の陰で各藩による密鋳が横行した。明治時代に引換回収された天保通寳は5億8674万枚にも上り[9]、これは金座および貨幣司が鋳造したものを1億枚以上も上回る数であり、かつ流通高のすべてが回収されたわけではないため、密鋳は2億枚程度に達したものと思われる。

密鋳に関わった藩は判明しているだけでも水戸藩久留米藩薩摩藩福岡藩、岡藩、土佐藩長州藩会津藩仙台藩久保田藩盛岡藩など10を超える[10]。

そればかりでなく、素性の不明ないわゆる「不知銭(ふちせん)」とされる天保通寳も多種存在し、現在のところ判明していない他の藩によるもの、あるいは小規模な民鋳によるものなどが考えられる

「民鋳」という言葉が良いですね。俺も民鋳してえ~~。

 

ところで、冒頭で紹介した「明治富豪史」は贋金の話の他にも明治時代に成り上がったお金持ちの話がバンバン書かれており(というかそれがメインの内容だが)、とても面白い。

作者の横山源之助(1871年-1915年)は明治に生きたジャーナリストで、「明治富豪史」も1910年に書かれたものである。

1910年といえば明治43年で、明治維新から43年経っているわけで、老人が若者に「維新の頃はヨォ~」などと語りかける感じの内容となっている。なんというか、そういうところも良い。

明治富豪史 (ちくま学芸文庫)

明治富豪史 (ちくま学芸文庫)

 

 ちなみに先日亡くなった日野原重明が1911年生まれなので、この本が出た翌年に生まれたということになる。どんだけ長生きしとるんだ