人間が折り重なって爆発した

人間が折り重なって爆発することはよく知られています。

東方プログレ合同に寄稿した短篇「Ghostron of Years」について

5月8日に東方例大祭で頒布された「東方プログレッシヴ・ロック合同『残響』」に柊正午名義で「Tarkus(Emerson Lake & Palmer)」をテーマに参加しました。

特設ページ↓

残響 東方プログレッシヴ・ロック小説合同

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さて、このブログ記事では寄稿した「Ghostron of Years」について、少し説明というか言い訳というか注釈を書いておきたいと思います。

作者が自分の作品について解説するというのは、もう本当にしょうもない事なのですが、しばしお付き合いください。

必然的にネタバレの話にもなりますので、そのあたりもご了承ください。

 まず元ネタから。

酉京都が天候管理をしているというネタは、主に「雨調気象天測」「泰平ヨンの未来学会議」「白馬のお嫁さん」あたりからきています。

雨調気象天則」は4年前にサークル雨具文庫から出た東方同人作品です。

秘封風のブックレット形式のSS(?)で、音楽CDは付いてないのですが、とても好きな作品。

(表ジャケットには暗くした歌川広重「大はしあたけの夕立」をバックに蓮子とメリーが並び、周りには風力記号が描かれている。裏も、おそらく有名な(?)富士山の絵(?)が暗い感じで描かれてる。)

雨調気象天則は、新設された京都の気象台に、次世代気象制御システム『気象天則』が設置されたというのが主な話。気象天則は稼働開始直後に"封印"されてしまうが、どうやら今でも稼働しているらしく、蓮子とメリーの話によれば、自らが起こしたバタフライエフェクトの影響を修正し続けるハメになったとのこと。つまり稼働しつづけるしかない。

良い話です。

あと、非想天則の元ネタが學天則というロボットであることもこのブックレットで知りましたね(まあ非想天則の元ネタwikiとか見れば載ってる情報ではあるが)。

「泰平ヨンの未来学会議」はスタニスワフ・レムSF小説。軍が投下した爆弾の幻覚薬物を吸った主人公が未来世界を見る、という話。荒唐無稽な話が延々続く感じでなかなか楽しい。

116ページに以下の話が出てきます。

九月の天候の件でちょうど人気投票が終わったところだ。天気は一ヶ月前に総選挙によって公平に決められるのだ。コンピューターがただちに投票結果をだす。然るべき電話番号をまわせば、それで投票したことになる。八月はわずかに雨が降るものの、あまり気温はあがらず、しのぎやすい晴天が続くことになっている。虹と積雲が多い、雨が降らなくとも虹がでるのは、虹を発生させる特別の方法があるからだ。気象管理代表部は、七月二六、二七、二八日に間違った雲をだしたことを謝罪した――気象制御に技術の手落ちがあったのだ!

 1971年に書かれた作品なので電話番号というところがレトロな雰囲気がある。

「白馬のお嫁さん」は"産む男"(性器が特殊)がいる未来の日本の話。関東地方には少なくとも市レベルくらいの敷地を覆える気象制御ネット(豪雨から都市を守るビニルの覆いみたいなの)があるっぽい。

庄司創の漫画は良いですよね。

 

「政治と宗教と野球の話だけはするな」という言葉がありますが、民主主義で天候が決まるような時代だと、天気の話題すら個人の主義主張を反映してしまうということで、つまり蓮子とメリーにそういう会話をさせたかったというのがあります。

 

シンギュラリティに到達した人工知能が人間に向かって「Hello!World!」と言うのは、東浩紀SF小説クォンタム・ファミリーズ」に着想を得ています。

クォンタム・ファミリーズ (河出文庫)

クォンタム・ファミリーズ (河出文庫)

 

 クォンタム・ファミリーズでは平行世界の通信が可能になった世界が描かれており、その最初のメッセージとして主人公がいる世界線が他の世界線へ「Hello World」と投げかける話がある。

このメッセージを発するのがシンギュラリティに達した人工知能だったらメチャエモいよなと思ったので作品に入れた。

 

作品の後半の根幹をなす部分ですが、これは完全に所謂<ゾーン>モノを書きたかったという感じです。

ストルガツキー兄弟の「ストーカー(路傍のピクニック)」、ジェフ・ヴァンダミアの「サザーン・リーチ」シリーズの影響が大きい。 

ストーカー (ハヤカワ文庫 SF 504)

ストーカー (ハヤカワ文庫 SF 504)

 

 

全滅領域 (サザーン・リーチ1)

全滅領域 (サザーン・リーチ1)

 

どちらもある日突然とある領域の自然現象や生物が変容してしまうという話です。

蓮子が立ち寄った家にまだ湯気の立つコーヒーがあった云々は、まあけっこういろんな作品で似たような描写を見ますが、上記の二つの作品にも似た感じの描写があったと思います。漫画「TRIGUN」でもそういうのありましたよね。

蓮子が背の高い草むらにいるときに人面犬が突っ込んでくるのとかは、サザーン・リーチシリーズに似た描写があります。

背の高い草むらは良いですよね。映画「サイン」で宇宙人と追いかけっこしたりするホラー的描写などがあった気がする。あれはトウモロコシ畑だったか。オタクはみんなトウモロコシ畑やヒマワリ畑が好きなんです。

子どもの笑い声という意味では「ライ麦畑でつかまえて」の主人公が夢想する断崖に沿った麦畑というものに近いかもしれない。

主人公が進む道の先に水たまりで休む犬がいるというのは、これは完全に映画版「ストーカー」の影響です。タルコフスキーの良さ。

 

自由回転する小町の鎌ですが、あれの元ネタはアニメ「太陽の船ソルビアンカ」第二話です。鎌ではないところ以外はだいたいそのまんまですね。(クソデカい刃物が湖の上を一瞬で全て覆ってしまう。主人公は頭を下げていたので無事)

お宝が眠っているという建物にダンテの神曲をモチーフとした三つの試練があり、その一つ目が刃物のやつ。ちなみにこの三つの試練のさらに元ネタは「インディ・ジョーンズ最後の聖戦」だと思う。

太陽の船ソルビアンカはOPが良いですね。こんなにカッコよくPioneerのロゴが出てくるアニメのOPを僕は他に知りません。

砂漠のオープンカーにスタイリッシュな女性が座っているという絵でもう最高という気分になる。(本編の内容はそこまで面白いとは感じないですが、デザインとかスタイルが良いという感じのアニメです)(主人公らが乗る船のOSのデザインがドチャクソ良い)

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 半魚人はルネ・マグリットの「共同発明」をはじめいろいろな絵に出てくるアレですね。昨年にマグリット展に行ったので、その影響です。

半魚人の浜辺を巨大ナマズが襲うのは、あれは動物ドキュメンタリーとかでよくあるペンギンやアザラシがいる浜辺にシャチが襲ってくるとか、そういうノリです。

半魚人が無表情でありながら慌ててドタドタと走って逃げていくのを想像するのは本当に脳に良いと思う。

 

眼のないウサギの元ネタはサークル荒御霊の東方同人CD「旅行」です。

10曲目の曲名がまさにそれ。このCDは小説版「旅行」とセットになっているのですが、ぼくは持っていないので内容は分かりません。CDの方はちょっと不気味な感じが続くので、小説もそんな感じなのかなと思っています。「山稜」「西暁」あたりの流れが好き。

眼のないウサギが昼になるとバタバタ死んでいくのは、ホドロフスキーの映画「エル・トポ」の影響です。

 

人面犬が透明になるのは「不思議の国のアリス」のチェシャ猫のイメージですが、自分より強い獣がいることに気づいて弱気になって透明になってしまう、というのは書いてて面白い概念でした。

ジュラシック・パークアーケードゲームで透明になるカルノタウルスが出てくるんですが、撃たれて退散するたびに透明になるので面白いし、愛嬌がある。

(カルノタウルスが光学迷彩能力を持ってたというのは「ジュラシック・パーク2 ロスト・ワールド」での創作で、映画版では再現されなかったが、このゲームには取り入れられている)(のちに昨年公開になった「ジュラシック・ワールド」でインドミナス・レックスという形でそういう機能があった)

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クソデカい透明な怪物という概念、それだけでけっこう面白そうな気がしますね。

 

本題。

この作品で何が書きたかったかというと、作中に出てくる「機械と自然と人間の想像力」という話で。 

蓮子やメリーの住む科学と幻想が融合していくような世界はいずれどうなっていくか、というのを自分のフェチズムで書いた感じです。

幻想郷における妖怪というのは、人間の想像力から遊離して、もはや独立しているように思えるし、そうした独立した幻想と科学=機械が人間とはまったく関係なく融合していけばどうなるか、みたいな。

円城塔の「Self-Reference Engine」という作品に、シンギュラリティを超えた人工知能が演算速度を最大まで上げようとした結果自然と一体化する、という話があり、これの影響をメチャ受けている。

Self-Reference ENGINE (ハヤカワ文庫JA)

Self-Reference ENGINE (ハヤカワ文庫JA)

 

 幻想と自然と機械が一体化し、それが現世に上塗りされるとまあ作中のあんな感じになるのでは、という。衛星<トリフネ>というのはその三者合体の試作品ともいえるような気がします。

Emerson Lake & Palmerの「Tarkus」では怪物タルカスが噴火ともに生まれる。タルカスはアルマジロに戦車をくっつけたような暴力的な形をしており、タルカスが出会い、ぶちのめしていくクリーチャー(ゼラチンに包まれたミサイルにバッタの脚が付いている奴とか機械化されたプテラノドンとか)もまた、生物と機械(というか兵器)が融合した形をしている。最後にタルカスはマンティコアという怪物と戦うことになる。このマンティコアは人間の顔にライオンの体にサソリの尾という、すべて生物の部位で構成されている。最終的にタルカスはマンティコアに負け、海に帰っていく。

東方的(?)(というか完全にぼくの私見ですが)に解釈するなら、マンティコアは自然と幻想の合体の産物だし、タルカスは機械と自然の合体の産物という感じがしている。

三者の合体が云々と言いましたが、結局それはせめぎ合いの言い換えで、人間が一歩都市の外へ出れば、そこには三者の混沌した状況が広がっているわけです。人間は霊的な素粒子加速器という機械でガンガン回して自分たちを守り、気象という自然をコントロールして都市内でぬくぬくと生活している、というそういう感じです。

ちなみに、超統一物理学と相対性精神学が合流して霊子という素粒子が仮定されるの、メチャ百合っぽいよな、というのを書いてから思った。学問は成就し、子を産むが、人間は成就しない(?)のだ。(というか人間が成就するかどうかはどうでもいいのだ)

相対性精神学の描写では仮面の男さんのこのツイートを参考にさせてもらいました。

博物学プリニウスは火山の爆発で死んだ説を最近知ったので、その辺の小ネタを盛り込んでも良かったかもしれないですね。

終わり。