映画「屍者の帝国」を見てきた感想
映画「屍者の帝国」を見てきました。
うん、ああ、そうか。という感じだった。
今回の記事は原作厨が映画化したものを見て酷評するという以上のものにはならないので、それを承知で読んでください。
結論から言うと、シュヴァリエや閃光のナイトレイド的なものを期待していったらスチームボーイかつR.O.D(OVA)かつ鋼の錬金術師だった、という感じです。スチームパンクだからそりゃ当たり前だろという風に思われるかもしれませんが、やはり俺の中では屍者の帝国はスパイ小説だったのだなと改めて実感したという次第です。
以下に感想をつらつらと。ネタバレもあります。
脚本は原作からわりと大きく改変されていて、ワトソンとフライデーの関係性が中心に据えられている感じ。ワトソンとフライデーは親友だったという設定になっていて、ワトソンがフライデーを魂をもつ人間として生き返らせようとすることから始まる。そしてその技術はヴィクターの手記に記されているはずで。みたいな。
良かったところ
・総じて背景がすごい
・フランケンウォークの動きが良い
・解析機関がグルグル動くのは本当に良い。(これをアニメ化したという時点で屍者の帝国はすごいみたいな話もぼくの中ではあります)
・冒頭の歩行マシンで屍者を歩かせてる実験シーンが何かで見た二足歩行ロボットやBigDogとかの実験映像と同じ構図で爆笑。
・屍者オペレーターが並んでぱちぱちとタイピングしてるシーン
・インドやアフガニスタンの背景、描写が本当に良い。良い……最高……台詞を入れずただ音楽と動画を流すところは本当に良い……
・インドで馬車で逃げ回るシーンはスパイ映画って感じで良いですね。爆発しまくるし。
・馬車テクニカルを見た。火炎放射器。良さ。
・アレクセイ一行が全員屍者化して食卓を囲んでいるシーンは良い。
・日本の描写が全体的に面白い。特に大里化学内の描写は原作とは違った面白味はあった。ライティングボールの間で坊主の屍者が並んでタイピングしてたり。
・屍者が暴走して云々でゾンビ映画的面白さはあった。
・ザ・ワンを手記に封じ込めよう、みたいな倒し方は良い展開だと思った(それで倒されないけど)
ここからは延々と文句を書いていきます。
・根本的にスパイ映画的要素がない。
・ハダリーのボンドガール的要素が薄い。BL映画なので主人公とキスできない(これは面白味がある部分でもあったが)(第二部でワトソンを色仕掛けで乗せるシーンがない)
・バーナビーのちょっと皮肉が効いた哲学的台詞なし。
・ピンカートン要素なし。
・リットンが出ない。だからリットン調査団というのもない。まあフランケンシュタイン三原則云々は当然削るだろうなという感じはあったけど。
・レット・バトラーなし。(まあ仕方ないかも)
・フョードロフとかノストラティック大語族の話なし。(まあ仕方ないかも)
・予告編から分かってましたが、アレクセイのキャラが思ってたのと違う(飛影はそんなこと言わない的話)
(クラソートキンが長じて活動家的な性格の人間になるのは分かるのだけど、アレクセイがそうなるのは「カラマーゾフの兄弟」からしてないだろうという感じで。彼は成長しても常に朗らかに笑っていて、そして精神の芯が異常に太い)
(ドストエフスキーは「カラマーゾフの兄弟」の第二部(存在しない)でクラソートキンをロシアの革命家として描くつもりだったらしい)
(それを言いだすと原作からして屍者を連れてアフガニスタンに引きこもるとかやらんだろ的な話はある)(それはそれ)
(このあたりはシャーロックホームズを読んでる人はそもそもワトソンはこんなキャラじゃねえよという思いがあるのかもしれないですね)
・なのでロシア皇帝ぶっ殺すぜ的な話もなし。
・原作だと夜のカイバル峠の宿営地のテントで鹵獲した屍者を解剖するというシーンが個人的に鮮烈だったんですが、あまりそういう雰囲気はなく。
・山澤がハーッとか言って扉を切ってくれない。
・山澤が「内臓を外したんです」とか言ってくれない。
・良い点でもあるのだけど、二刀流の屍者が明治の軍服ではなく武者だった(ニンジャスレイヤー的感じ?)
原作だとこういう(以下)感じのイメージで、これ映画で見れたら最高だなと思ってたので、ちょっと不満だった。(まああの空間はけっこう面白味があったのだけど)
・ライティングボールが自殺するシーンなし。
(ああいう、メッセージだけ伝えて消滅するスパイ映画的要素を見たかったんですよ)
・山澤がライティングボールを真っ二つに切ってくれない。
・天皇襲撃事件の一切がなし。天皇なし。(天皇をアニメ化するということには意義があるので)
・大村益次郎なし。(大村益次郎を所謂フランケンシュタインの怪物っぽく見立てた原作のシーンは大村益次郎のwikipediaの画像なんかを見るに完全にギャグで、メッチャ見たかった)
・ウィリアム・バロウズ(1世)が経営してるグーグル社っぽい会社の描写なし。
原作で見たかったシーンが映画にないとテンションは下がるという感じで、まあなんか典型的原作厨で、でもこれはまあ仕方ないんだろうなという感じですね。
あと、原作がそうなのだけど、やはり第3部が異様に浮いているというか、伊藤計劃が得意とする(?)"現実描写の精度"みたいなものが、第三部にはほぼ存在しなくて、これは円城塔が書いているから仕方ないのだけど、でもこれは本当に円城塔が書きたかったことなんだろうか、みたいなことをたまに思うのである。要するに俺はやっぱり第三部をあまり気に入ってなくて、そういう部分が前面に出てくる映画版もあまり好きになれないな、という結論になってしまう。
というわけで、これからパンフレットでも読んで映画版との相互理解を深めていこうと思います。
追記:
二周目見てきましたが、酒飲みながら友人らと見たらなかなか面白かったです。
「映画版は伊藤計劃アンソロジーの一環で二次創作だし、そういう風に考えたらメッチャ面白い作品だった」
「アレクセイとクラソートキンとドミトリーのゾンビ食卓シーンって、あれってあり得たかもしれないハーモニーの構図なんじゃないか(男三人だけど)」
「USSノーチラスのドリル、どう考えても笑うでしょ」(ロンドン塔に突っ込むことが既に想定されているデザインやんけ、等)
「いや、バッテリーが入ってるんでしょ(常識でしょ)」
みたいな感想が出てきた。
あと、ラストでワトソンが自分に霊素をインストールするところはやっぱ唐突なんじゃね、とか。最終的になんでワトソンもフライデーも意識をもったかみたいなのが、(原作も多少そうだけど)曖昧ですよね、とか。